近況雑感(毎月更新)

2022年9月の雑感
今月の9日で、地域安全マップが20歳になった。
その記念に記事を2本書いたのがこちら。


地域安全マップの未来に幸あれ。
2022年8月の雑感
 先日、よく売れている子どもの防犯の本に「安全マップ」のページがあったので見てみた。そこには驚きの記述があった(写真参照)。
 危険な場所:
  ・見通しが悪い道
  ・人通りの少ない道
  ・暗い道
 安全な場所:
  ・スーパー
しかし、以下の理由から、これらの記述はすべて間違い。
・見通しがいい道でも、周囲が田んぼや畑だけで、家の窓が見えなければ「見えにくい場所」(新潟女児誘拐監禁事件など)
・人通りの多い道でも、注意や関心が分散し、傍観者効果も生まれるので「見えにくい場所」(西宮女児連れ去り事件など)
・暗い道より明るい道の方が、事件が多い。
・スーパーは、注意や関心が分散し、傍観者効果も生まれるので「見えにくい場所」(熊本スーパー女児殺害事件など)
 こうした無責任な書籍が出回っている現実に恐怖を覚える。この本をうのみにして、被害者が生まれなければいいのだが・・・。

  参考記事はこちら
2022年7月の雑感
 ウィークエンド時代の「岬めぐり」の大ヒットで知られるシンガー・ソング・ライターの山本コータロー氏が亡くなった。コータローさんは、長きにわたって白鴎大学で社会学を教えていたという。ボクは学生時代、コータローさんと同じコンサートに出演したことがある(写真は、そのときのチケット)。
 前座のボクは、オリジナル曲のほか、吉田拓郎さんの「リンゴ」を歌った。コータローさんは、それを聴いていたらしく、ステージに登場した後、演奏の合間に「さっき、やせた拓郎が歌っていたね」と感想を聴衆に話していた。そういえば、コータローさんが一橋大学社会学部4年のときに書いた卒論は、「誰も知らなかったよしだたくろう」だそうだ。
 ご冥福を心からお祈りしたい。
2022年6月の雑感
 映画『ヒノマルソウル〜舞台裏の英雄たち〜』を観た。長野五輪のスキージャンプ団体を描いた実録ドラマである。ボクにとっての感動の場面、歴代1位の出来事だ。もちろん、マラソン初の金メダル(高橋尚子)、「平成の三四郎」の奇跡の金メダル(古賀稔彦)、スピードスケート初の金メダル(清水宏保)、ソフトボール初の金メダル、バドミントン初の金メダル(高橋礼華・松友美佐紀)、卓球初の金メダル(水谷隼・伊藤美誠)など、感動の場面を挙げ始めたらキリがない。それでもやはり、長野五輪のスキージャンプ団体は、断トツの1位である。こんな出来事は、二度と起こらないだろう。
 昔すぎて知っている人は少ないと思うが、男子バレーボール初の金メダルも奇跡としか言いようのない出来事だった。そのときの監督が松平康隆氏だ。コーチとして東京五輪で銅、監督としてメキシコ五輪で銀、ミュンヘン五輪で金メダルを日本にもたらした。日本代表を同時進行で追うテレビアニメ『ミュンヘンへの道』を自ら企画し、番組は、半年間、毎週日曜に放映された。「負けてたまるか」が信条だった松平氏は、番組は自らにプレッシャーをかける手段だったと回想している。
 *写真は、立正大学で講演していただいたときのもの(左が松平氏。後ろは望月哲也教授)。
2022年5月の雑感
 ボクの助手を務めている「コミリス」にLINE(ライン)スタンプができた。当初、無料で配布する予定だったが、LINEの規則で、無料の設定ができないことが判明した。不特定多数の利用を想定する場合には、有料でしか登録できないそうだ。そのため、最低価格で登録したので、ご理解いただきたい。
 実は、最初の申請は却下という悲劇に見舞われた。LINEから届いた却下理由は次の通り。
 「申請いただいたスタンプは、世界の異なる文化・習慣の観点より販売国を限定させていただきます」「以下の国家のチェックをはずしたうえで、再度リクエストをお願いいたします。韓国、中国、香港、マカオ、インドネシア」。
 これには悩んだ。最初、仏教的表現とみなされた画像があって、それがまずいのかと思ったが、除外国にイスラム教のインドネシアが含まれていたので、それではつじつまが合わない。いろいろネットで調べてみて、おそらく問題の画像はこれだろうと推測して、再度申請した。結果、無事に承認された。問題となった修正前の画像が右上の画像。これを見て、却下された理由が分かれば、その分析は大したものである。
 ★「コミリス」のLINEスタンプはこちら
2022年4月の雑感
 おかげさまで、いくつかの小学校用の教科書で「地域安全マップ」が取り上げられるようになった。ありがたいことだ。ただし、正確に紹介されているかと言えば、イマイチの内容もある。
 例えば、写真の教科書では、「だれか、物かげにひそんでいるかもしれない」から危険、と説明されているが、そんな簡単に怪しまれることをする犯罪者はいない。犯罪者は極めて自然に振る舞う。電信柱の陰に隠れたり、草むらに身を隠したりもしない。
 「人通りの多い道」が安全、という説明もあるが、これも間違い。人通りの多い道でも、人通りが途切れるタイミングは必ずやってくる。犯罪者はそのチャンスが訪れるまで、普通の住民として振る舞う。人通りの多い場所だけに、そこにいても周囲が違和感を覚えることはない。犯罪の主導権は、常に犯罪者の側にあり、いつ犯罪を始めるかは犯罪者次第だ。
 また、人通りが途切れない「にぎやかな道」も安全ではない。そこにいる人の注意や関心が分散し、犯罪者の行動が見過ごされるからだ。外的刺激が多ければ多いほど、異常な事態に気づきにくくなり、仮に気づいても、その場に居合わせた人が多ければ多いほど、援助行動を起こしにくくなる(傍観者効果)。
 結論だけ言えば、地域安全マップづくりでは、死角・人通り・街灯はNGワード。このことも、きちんと伝えていただきたい。
2022年3月の雑感
 先日、たまたま友人の追悼記事をネットで目にした。少なからずショックを受けた。
 その友人とは、ケンブリッジ大学留学中にお世話になったアラン・グリフィス氏。かつてグリフィス氏が横浜国立大学に研究滞在していたことから、親交のあった天川晃・横浜国立大学教授(故人)に紹介していただいた。
 ケンブリッジでは、グリフィス氏の自宅を訪れては、ボクの英語の論文を、何度も丁寧にチェックしてもらった。今でもよく覚えているのは、英語の論理性だ。ボクの論文で「したがって」という英単語を多用していたら、「前後の文章で因果関係が明らかなときは、『したがって』を使う必要はない」と教えてくれた。なるほど、これが英語の論理性かと感動した。
 あれから30年、日本では「以心伝心」や「あうんの呼吸」を美徳とする風潮が強いが、そうした精神論は科学の軽視につながり、弊害が大きいと最近つくづく思う。
 言語は思考を拘束する。それを教えてくれた恩人、温かかったグリフィス先生と天川先生のご冥福をお祈りしたい。
2022年2月の雑感
 東京都知事だった石原慎太郎氏が亡くなった。東京都の治安が最悪のときに、竹花豊副知事とともに、犯罪機会論の普及に尽力された。今ではすっかりトーンダウンしてしまった「地域安全マップ」だが、石原知事自らが、定例会見で、「地域安全マップ」を説明したこともあった。お会いしたときの第一声は「あなたが、セオリスト(理論家)ですか!」。これには本当に驚かされた。ご冥福をお祈りしたい。
2022年1月の雑感
 2022年は、「地域安全マップ」が誕生してからちょうど20年目になる。   
 20年前、ボクが勤務する立正大学には、必修科目として、学外で行う「社会調査実習」があった。授業ではアンケート調査を行うのが当たり前だったが、それでは犯罪機会論を生かせない。そう考えたボクは、講義で学んだ犯罪機会論を学生たちに実践させる手段として、地域安全マップを思いついた。犯罪機会を探して街を歩けばマップができ、それで立派な調査実習になると思ったのだ。
 もっとも、学生たちは飽きずにフィールドワークができるのか不安だった。そこで苦肉の策として、調査が完了したら遊園地に行くことを学生に約束した。馬の鼻先にニンジンをぶら下げたのである。
 だが遊園地に着くと、学生たちは意外な行動に出た。レストランに閉じこもり、外に出てくる気配が一向にないのだ。けげんに思って電話をかけてみると、皆で調査結果について議論していると言うではないか。これには驚いた。そして気づかされた。地域安全マップづくりは、遊園地で遊ぶことよりも面白いのではないかと。
 そこから地域安全マップの普及活動が始まった。学生たちを魅了する不思議な力があるのなら、子どもも大人も楽しみながら危険予測能力を高めることができるに違いない。そう思って今日まで、学生と二人三脚で、地域安全マップの魅力を全国各地でアピールしてきた。
 地域安全マップ誕生当時の学生たちも40歳になった。時は流れたが、残念ながら、犯罪機会論に基づいて作られた地域安全マップは、地域安全マップ全体の1割程度にすぎない。任重くして道遠しではあるが、前を向いて歩いて行きたい。
 ★写真:実習地の広島県三原市近郊の「シトラスパーク瀬戸田」で記念撮影
2021年12月の雑感
 先日、秩父市の小学校でオンライン授業を行った。デジタル・トランスフォーメーションを推進している学校だったので、オンサイト(対面)での授業に近い臨場感の中で、子どもたちの反応を楽しむことができた。
 授業終了後、秩父市教育委員会から、子どもたちの感想を分析した結果が届いた。テキストマイニングによる分析結果からは、「入りやすい」「見えにくい」というキーワードが、子どもたちにしっかり伝わったことが確認できる。
2021年11月の雑感
 昨年に引き続き、富山県の防犯ボランティア向けに、ホットスポット・パトロールの講習会が開催された。今年は、コロナ禍ということで、オンライン(リモート)で、フィールドワーク・シミュレーションを行った。
 印象的だったのは、質疑応答の時間に、かなり突っ込んだやり取りができたことだ。防犯ボランティアから、連続車上荒らしが起きた町内の通りについて、その原因と対策を聞かれた。事件現場のGoogleストリートビューを見ながら、質問者に刑事の聞き込みのようなことを行い、事件の核心に迫っていった。
 現場の状況をいろいろと教えてもらい、現場は「入りやすく見えにくい」ということが分かった。やはり原因は、領域性と監視性の低さだったのだ。診断の結果、そこを「見えやすい場所」にする対策は難しそうなので、「入りにくい場所」にするアイデアをいくつか挙げて、今後の活動に役立ててもらうことにした。
2021年10月の雑感
 先日、新潟県の小学校で「命を守るための防犯教育」の授業を行った。と言っても、学校を訪問したのではなく、東京からオンラインで行った(写真)。学校側も、子どもたちの表情がよく分かるカメラを用意してくださったので、対面授業と遜色なく実施できた。
 今回は、コロナ禍ということで、やむを得ずオンライン授業になったが、コンテンツ(教材)と設備をしっかり準備できれば、つまり、オンライン授業のソフトとハードがそろえば、コロナが収束しても、有効な授業形態になるに違いない。
 とりわけ、コストパフォーマンスは圧倒的に高いので、遠方でも気軽に授業を実施できるはずだ。情報教育との一石二鳥にもなる。デジタル時代にふさわしい防犯教育が始まった感がある。
2021年9月の雑感
 台湾のテレビドラマ「悪との距離」を見た。ノンフィクションライターの藤井誠二さんが推薦していたので、期待して見たが、期待を超える作品だった。ネタバレは控えるが、個人的には、「犯罪原因論」に洗脳されていない脚本が最も気に入った。
 それに比べ、日本のドラマや映画は、「犯罪原因論」にどっぷりつかっているものが多い。例えば、分かりやすい犯行動機、ステレオタイプの刑事、サイコパスの殺人犯、ひ弱な被害者、パニックの群衆、などなど。
 さらに、「犯罪原因論」に毒されていると、ディテールが非現実的なものになってしまう。設定自体は突拍子もないものであってもいいが、ディテールまで突拍子もないものになると、ドン引きだ。
 「犯罪機会論」が普及していないから、ドラマや映画が「犯罪原因論」一辺倒になるのか、ドラマや映画が「犯罪原因論」一辺倒なので、「犯罪機会論」が普及しないのか、「鶏と卵」のようで、よく分からないが・・・。
2021年8月の雑感
 東京オリンピックの柔道で日本男子は金メダル5個を獲得した。史上初の金メダルなしに終わったロンドン・オリンピックの後に就任した井上康生監督の功績が大きいと報じられている。報道では、「根性論や精神論に偏ることなく、科学的なトレーニングを積極的に取り入れ、他の格闘技を参考にするなど柔軟な発想で指導改革をしてきました」という関係者の言葉が紹介されている。科学的な思考法のベースには、引退後のイギリス留学があるという。確かに、公共政策調査会の論文審査会でも、選考委員として的確なコメントをされていた(下記参照)。
 新型コロナ対策も、犯罪対策も、こうした科学的で進取的なアプローチを見習ってほしいものだ。
 それにしても、最終日の混合団体で銀メダルに終わったのは残念だ。1964年の東京オリンピックを思い出し、歴史が繰り返されたかのようだった。このときも、連日金メダルを取ったが、最終日の無差別級でヘーシンク氏に敗れたのだ。その後も、ミュンヘン・オリンピックの無差別級でルスカ氏に敗れたが、モントリオール・オリンピックで上村春樹氏が日本に初めて無差別級の金メダルをもたらした。幸運にも、ボクは、その瞬間を試合会場で目撃した(写真は、そのときのチケット)。
 2024年のパリ・オリンピックで(敵地で)、柔道混合団体金メダルのフランスにリベンジすることを期待したい。

 ・懸賞論文論文集「オリンピック・パラリンピック東京大会の安全安心な開催   
  のための対策を考える」(公共政策調査会)はこちら
2021年7月の雑感
 メジャーリーグの大谷翔平選手が、オールスター戦に史上初めて、投打の「二刀流」で出場し、日米の野球ファンが熱狂した。ボクも野球で久しぶりに感動した。前日には、ハラハラドキドキしたホームランダービーがあったが、それを見ていて、22年前のホームランを思い出した。
 東洋大学の研究グループからセントルイス共同研究にお誘いいただいたときのことだ。細井洋子先生に同行して、少年院を訪問したのだが、見学が終わるころ、案内してくれたミズーリ州の職員が、突然「野球は好きか?」と聞いてきた。話を聞くと、観戦する予定だった試合が雨天中止になり今日に延期されたが、都合が悪いので行きたい人にチケットをプレゼントするというのだ。もちろん、ボクたちは、急遽予定を変更して、ブッシュ・スタジアムというカージナルスの球場に向かった(写真)。史上初めて、70本塁打を記録したマーク・マグワイアが見たかったからだ(最多本塁打の新記録は前年に達成していた)。
 席は外野だったが、試合開始後間もなく、マグワイアがホームランを打った。「さすが!」と思いつつ、間近で見たくなり、通路を歩いて内野席に入り、最も近い位置までたどり着いた、そのときだった。目の前で、マグワイアがまたホームランを打ち、観客が総立ちになったのだ。鳥肌が立つほど感動した瞬間だった。
 テレビでも、野球観戦できる。しかし、ホームランだけは、テレビ画面のフレームには収まらない。ホームランの軌道を追えるのが、スタジアム観戦の醍醐味なのである。
2021年6月の雑感
 6月は、過去に度々、通り魔事件や無差別殺傷事件が起きている。したがって、「魔の6月」と呼べるかもしれない。そうした事件を検証する映画があってもよさそうだが、なかなかお目にかかれない。一方、海外にはその手の映画がたくさんある。例えば、リアリティを追求するクリント・イーストウッド監督の作品にも、テロの現実を伝えてくれるものがある。フランスの「タリス銃乱射事件」を描いた『15時17分、パリ行き』と、アメリカの「アトランタオリンピック爆弾テロ」を描いた『リチャード・ジュエル』だ。どちらも、犯罪学の視点から見て、授業の教材にしたい優れた映画である。
 ・「無差別殺傷事件」の記事はこちら
2021年5月の雑感
 先月、米国アカデミー賞の授賞式が行われた。「大トリ」の番狂わせには驚かされたが、それ以上に印象的だったのは、今回ノミネートされた作品の多くが、「黒人差別」をテーマにしていたことだ。その中でも、とりわけ、主演男優賞の本命と目されていたチャドウィック・ボーズマンと主演女優賞にノミネートされたヴィオラ・デイヴィスが、演技の火花を散らした「マ・レイニーのブラックボトム」が強烈だった。
 「VOGUE」誌の記事に、ヴィオラ・デイヴィスについて、「あの汗まみれの、見ているだけでこっちの体温も2度上がっちゃいそうなギトギトの存在感を出せる演技力はさすがですよ。『マ・レイニーのブラックボトム』はヴィオラが出てくるとキャラに釘付けで、ストーリーが頭に入ってこなかった」と書かれていて、思わず吹き出してしまった。おっしゃる通り。
  ・「アカデミー賞」と「黒人差別」の記事はこちら
2021年4月の雑感
 コロナのせいにして、何もしないのは情けないので、防犯アニメーションを制作した。20年にわたる防犯教育活動の結晶である。
 この動画が、なぜ必要なのかについては、次の記事を読んでいただきたい。
  ・記事はこちら
2021年3月の雑感
 「新しい生活様式」が提案されてから1年になるが、定着したのはマスクの着用ぐらいだろう。本当は、もっと根本的なところでのコペルニクス的転回が求められているのではないだろうか。ボクが考える「新しい生活様式」は、例えば、以下の通り。これらは、コロナがなくても、やがて訪れる変化であり(例えば、森林保護や職住近接)、ただ、そのスピードがコロナによって加速したと思われる。

●読書:書店やネットショップ経由の紙書籍→ネット経由の電子書籍
●講演:集合密着方式→オンライン・リアルタイム方式やオンデマンド方式
●資料:紙媒体→電子媒体(ペーパーレス・オフィス)
●入試:記憶力の測定→編集力(検索力+発信力)の測定
●ゼミ:口頭発表→動画制作

 というわけで、学生有志に調査実習報告の動画版を作ってもらった。大学生は、未来からの留学生なので、未来に帰ったときに役に立つスキルを身につけてほしかったのだ。
         ・動画はこちら
2021年2月の雑感
 先日、たまたま、ノーベル賞受賞者がテレビで、新型コロナウイルス感染症について語っているのを見た。さすがに視点が鋭く、提案も説得力があった。
 ボクは、昨年7月に、ささやかながら、社会貢献になればと思って、新型コロナウイルス感染症に関するオープンソース・リサーチの結果を文章と動画でまとめた。しかし、その後の政府の動きやマスコミの論調は、そこから離れていくばかりだった。そのため、少々自信をなくしていた。
 そんな折に、ノーベル賞受賞者の凛とした姿に接し、「やはり、そうですよね」と自信を取り戻した。というわけで、その文章と動画を再掲したい。クライシス・マネジメントよりもリスク・マネジメントが重要なのは、感染防止も犯罪防止も同じである。

2021年1月の雑感
 ボクの個人的な世界では、昨年の流行語大賞は「フィールドワーク・シミュレーション」である。新型コロナウイルス感染症の影響で、講演会や研修会の開催が危ぶまれたため、起死回生の一撃になればと開発した手法だ。やむにやまれぬ状況で編み出したものだったが、これが思いのほか好評で、日本各地はもちろん、依頼を受けて、海外のフィールドワーク・シミュレーションも行った(写真)。結果的には、「ウィズコロナ、ポストコロナ」の時代にふさわしい研修ツールになったようだ。
 そういえば、地域安全マップにも同じようなことがあった。大学の実習に犯罪機会論を取り入れるため、アンケート調査に代わるものとして考案したのが地域安全マップである。まったく期待していなかったのに、学生から、「楽しい」「面白い」「もっとやりたい」というが声が沸き上がったので、小学校などへ「地域安全マップづくり」を提案するようになったのだ(この辺の事情は、『犯罪は予測できる』(新潮新書)に詳しい)。
 「必要は発明の母」とはよく言ったものだ。「発明」は、ピンチをチャンスに変えるのに最も有効な方法であるに違いない。
2020年12月の雑感
 師走に入り、社会調査実習の授業も佳境を迎えた。今年は、新型コロナウイルス感染症の影響で、現地を訪問して調査するという従来の方法がとれなかったため、学生たちは、フィールドワーク・シミュレーションという新たな手法を学び、それを用いて現地調査を行った。学生たちは、最初は戸惑いがちだったが、今では、サイバー空間で、もう一つの「現地」を縦横無尽に歩き回っている。先日は、その成果を基に、アクション・リサーチのカウンターパートである富山県(県庁、警察本部、高岡法科大学)とオンラインで結び、リモート会議を行った(写真)。学生たちは、「ウィズコロナ、ポストコロナ」の時代にマッチした調査手法をマスターしつつある。
2020年11月の雑感
 記憶力が悪いので、映画やドラマのシリーズものについては、完結するまで見ないことにしている(なので、継続中の作品の話をボクにするのはご遠慮願いたい)。あの「ハリー・ポッター」も、全作品の公開が済んでから一気に見た(今では、内容をほとんど覚えていないが)。しかし、この原則を破って、アメリカのテレビドラマ「ウォーキング・デッド」を、シーズン10(第147話)まで一気に見てしまった。
 人気があることは知っていたが、「ゾンビなんて」ということで、ずっと敬遠してきた。同じ理由で、映画「カメラを止めるな!」も見ていなかったが、「だまされたと思って」と勧められたため、気乗りしないまま見たら、これがすこぶる面白かった。そんなことがあったので、「ウォーキング・デッド」も、「シーズン1だけは見てみるか。どうせ最後までは見ないし」という軽い気持ちで見始めた。結果、すっかりハマり、見続けてしまった。シリーズはまだ完結してなく、最終シーズンとなるシーズン11は、2022年公開予定だという。それまで記憶がもつか心配だ。
 遅ればせながら、このドラマの魅力を語るなら、「ウォーキング・デッド」には社会学のすべてが詰まっていると言いたい。家族、仲間、集団、地縁、交換、産業、都市、分業、役割、情報、差別、LG、偏見、成長、喪失、DV、育児、環境、障害、経営、犯罪、教育、宗教、疫病、秩序、紛争などが盛り込まれ、とりわけ、コミュニティの形成と拡大の描き方は圧巻である。狩猟社会から農耕社会、そして工業社会へと続く人間社会の発展プロセスを、「ウォーキング・デッド」の中で確認することができるのだ。もちろん、ゾンビは登場するが、それは原始社会における猛獣のメタファー(たとえ)にすぎない。
 魅力的なキャラクターが多く登場するものの、猛獣(ゾンビ)に囲まれた環境下で、試行錯誤するコミュニティの生きざまこそ、このドラマのメインテーマだ。そういえば、「コミュニティ」という言葉の語源は、「共に守る」を意味するラテン語だとする説がある。いずれにしても、人類社会が持つダークサイドとブライトサイドというアンビバレント(二律背反的)な現実を再認識させられ、ため息を禁じ得なかった。恐るべきドラマである。
 「ウォーキング・デッド」では、日本の城のように、周囲に堀を巡らすのではなく、高い壁を築くことで、ゾンビの侵入を防ごうとしている。極めて、非日本的な発想だ。「ウォーキング・デッド」へと受け継がれている「城壁都市のDNA」は、海外において、「犯罪機会論」の普及を強力に推し進めてきたが、残念ながら日本では、城壁都市の未経験が災いして、「犯罪機会論」の普及が阻害されている。防犯対策において、公園のゾーニングが中途半端なのも、施設のゾーン・ディフェンスが低調なのも、城壁都市の未経験が原因である。
 たかがドラマと侮るなかれ。「ウォーキング・デッド」には、犯罪学や社会学のエッセンスがちりばめられている。「実践なき理論は無力であり、理論なき実践は暴力である」とは、ボクが考えた座右の銘だが、ドラマも、ここでいう「実践」の一つに違いない。
2020年10月の雑感
 ボクが犯罪機会論の普及に取り組み始めてから30年近くの月日が流れたが、ようやくここにきて、犯罪機会論を本格的に取り入れたガイドラインを作成した広域自治体(都道府県)が現れた。富山県だ。富山県は、先月、2005年に策定された「防犯上の指針」を初めて改定し、日本の防犯対策を大きく前進させた。願わくは、他の広域自治体や基礎自治体(市区町村)も、この世界的な潮流に乗り遅れないでほしい。

・「防犯上の指針」の動画はこちら
・「防犯上の指針」の冊子はこちら
・「防犯上の指針」はこちら
2020年9月の雑感
 犯罪機会論に関する前期のオンライン授業(200人対象)15回が終わった。毎年、大学が課す学生アンケートを実施しているが、今年の結果は意外なものだった。昨年までの対面授業よりも圧倒的に良かったのだ。満足度のレベルが上昇しただけでなく、プラス評価の自由記述(匿名)が一気に増えた。その数は、「活舌が良くない」「具体例ばかりで少々飽きる」「喋るの遅い」「復習テストだけでなく他のも用意した方がいい」といったマイナス評価の5倍に及んだ。 
 例えば、こういった書き込みがあった――「飽きない。何回でも見たい映像授業」「先生の遊び心が垣間見えて楽しい」「対面の授業より、まとまっていて集中して聞くことができた」「動画作成がこっていて聞いていて苦ではなかった」「小宮先生が撮ってくださった写真や動画を見ていると、旅をしている気分になるのでリラックスできます」「ユーモアを含めながらしゃべってくださったので、飽きることなく、授業を受講できた」「授業を面白くする工夫がたくさんされていて、毎回授業が楽しい」「話し方のトーンも明るくて、気分的に授業が受けやすいです」「毎回先生の授業の動画を見るのが楽しみでした」「説明もわかりやすく面白いので受講してよかったと心から思える授業だと思います」「映像資料が積極的に取り入れられており、授業に緩急がついていて集中力も持続した」「先生がお茶目で授業の中でもダジャレやジョークを言っていて、学習したことを印象付けて覚えることができたり単に面白みを感じて笑えたりした」「一番楽しい」「授業内容に関連した現地での先生の実体験もとても楽しく聞かせてもらいました。また、先生の顔が出てきて遊び心が見えた回もあって、オンライン授業の影響で精神的に参ってる中で少し心が穏やかになりました。後期は履修してなかったのですが、追加したいなと思いました」「行ったことが無い外国に自身も行っている気分になれたので楽しかった。先生がオンラインをとても楽しんでいて、こちらも楽しく勉強できた」「オンラインで不安だったが、オンデマンド型ではこの授業が1番しっかり学べたような感じがした」「先生の優しさが動画を通しても大いに感じることができ、とても楽しくに授業を受けることができた」「こちらの知識量に合わせた説明や写真があり、内容が理解しやすかった。しゃべり口もゆっくりで聞き取りやすく、配慮された映像授業だった」「写真やアニメ、実際に行った動画などがあったため非常にわかりやすく理解しやすかった」「動画が一番面白くて見やすい」。
 
 「豚もおだてりゃ木に登る」ということで、調子に乗って、オープンキャンパス用の動画作成を引き受けた。さらに、オンラインの講演会や研修会でも、主催者の希望に応じてカスタマイズされたオーダーメイドの動画を流すようになった。
 「対面<オンライン」という評価は、喜んでいいのか悲しむべきなのか、微妙なところだが、ウイズ・コロナの時代には、研究のインプットとアウトプットの手法も大きく変わり、オープンソース・リサーチ(インプット)とフィールドワーク・シミュレーション(アウトプット)を活用した動画は、時代にはマッチしているのだろう。

  ウェブオープンキャンパスで配信した動画はこちら
2020年8月の雑感
 オンライン授業、オンライン会議、オンライン取材という毎日が続いたため、細切れの時間が減り、たまっていたテレビドラマシリーズをようやく見ることができた。自分の趣味はさておき、犯罪学者としては、犯罪系の作品を優先させなければならない。優れた作品は、犯罪学の研究や教育に大いに役立つからだ。オンライン授業でも、ほぼ毎回、映画やドラマの話をしたり、実際に映像の一部を視聴させたりしている。
 もっとも、日本の作品は、ごく一部の例外を除いて、研究や教育の役には立たない。それでも、できるだけ見るように努めてきたが、絶望的な状況は一向に変わらない。なぜそうなのかはよく分からないが、おそらくその背景には、日本における犯罪学の認知度・普及度の低さもあるのだろう。となると、ボクにも責任の一端はあるので、評論家ぶるのはひきょうかもしれないが。
 閑話休題。今回見た犯罪系のテレビシリーズの中で、特におすすめの3作品が、アカデミー賞男優の熱演が光る「TRUE DETECTIVE/トゥルー・ディテクティブ」、アカデミー脚本賞を受賞したコーエン兄弟が自ら映画をドラマ化した「FARGO/ファーゴ」、そして、ホラーの帝王スティーヴン・キングがミステリー初挑戦でエドガー賞最優秀長編賞に輝いた「ミスター・メルセデス」だ。いずれもシーズン3までが放送されているが、前二者はアンソロジー形式(シーズンごとに完結)なので、記憶力の悪いボクでも、何とかついていけた。
 ネタバレは避けるが、この3作品はそれぞれの特徴がかなり際立っていて、あえて言うなら、「TRUE DETECTIVE/トゥルー・ディテクティブ」は徳川家康流(鳴かぬなら鳴くまで待とう)、「FARGO/ファーゴ」は織田信長流(鳴かぬなら殺してしまえ)、「ミスター・メルセデス」は豊臣秀吉流(鳴かぬなら鳴かせてみせよう)といったところか。意味不明な紹介で申し訳ない。
2020年7月の雑感
 先月、動画「新型コロナウイルス感染症に対する戦略プラン(イメージ・シミュレーション)」を公開したが、最近の新型コロナウイルスの感染者の増加を見ていると、やはりプランB(社会的距離)では無理そうだ。ではどうするか。世論調査では、プランA(外出自粛)への回帰が支持されている。しかしそれでは、経済が持たない。オンライン授業が普及していない現状では、教育も休止する。
 リスク・マネジメントの視点からは、無症状感染者を発見することで医療と経済・教育の両立を目指すプランC(検査と隔離)や、きめ細かく各種プランを組み合わせるプランD(ハイブリッド)を検討すべきだが、果たして行政やマスコミは、そういうオプションを国民に提示するようになるのか。いずれにしても、一人ひとりの自衛は避けられない。
 犯罪機会論では、危険な「入りやすく見えにくい場所」にいるときは、警戒心というバリアを張り、せめて自分の周りだけでも「入りにくい場所」にしようと働きかけるが、感染防止も同様で、ウイルスは見えにくいので、マスクなどで口・鼻に入りにくくするしかない。この視点から、感染回避のためのイロハを考えてみた。ただし、素人がオープンソースから抽出したヒントにすぎないのであしからず。
 回避すべき「イロハ」の「イ」はインドア、「ロ」はロングタイム、「ハ」はハッセイ(発声)である。確かに、3密(密閉、密集、密接)には、「イロハ」が当てはまりやすいが、当てはまらないケースもある。例えば、満員電車は、ドアが頻繁に開くので、半インドアだし、発声も少ない。電車内で携帯電話の通話が禁止されているのは、世界中で日本だけである。
 「イロハ」は、軽視されてきたマイクロ飛沫(エアロゾル)を念頭に置いている。マイクロ飛沫感染については、確立した定義がないので、とりあえず飛沫感染と飛沫核感染(空気感染)の中間と理解している。いずれにしても、マイクロ飛沫は、「ソーシャルディスタンス」を保っても、マスクと顔との隙間から漏れ込むので厄介だ。コールセンターでクラスターが発生したのは、このせいなのかもしれない。室内で(イ)、長い時間(ロ)、大声を聞き続ける(ハ)ことは避けたいものだ。
 もっとも、この「イロハ」では、接触感染をカバーできない。そこでもう一つ、回避すべき「3S」というのを考えてみた。三つのSとは、Stay(とどまる)、Speak(話をする)、Share(共用する)である。大分市の院内感染は、スタッフが共用するタブレット端末を介した接触感染がきっかけだったそうだ。「イロハ」や「3S」を忘れないで、自分の口・鼻をウイルスにとって「入りにくい場所」にしよう。
2020年6月の雑感
 緊急事態宣言が解除され、世の中では、ちょっとしたお祭り気分が芽生えているような気がする。それでもマスコミは、相変わらず新型コロナウイルス感染症の報道に熱心だが、日々のニュースで断片的な情報に途切れなく接していて、どうも木を見て森を見ていないのではないか、という思いに至った。そこで、「これまで」と「これから」を整理してみた。もちろん、ボクは感染症の専門家ではないので、細部は棚上げしたまま、あくまでも一社会学者として鳥瞰図を作成したにすぎない。
 社会問題は、みな複雑にして微妙だが、単純なモデルで思考実験をしていると、ふと意外なヒントに出くわすこともある。コロナとの長い戦いにも、思考実験はプラスになるかもしれない。目指すは持続可能な社会。戦略と戦術を意識して、情報の洪水に溺れないようにしたいものだ。

 鳥瞰動画「新型コロナウイルス感染症に対する戦略プラン(イメージ・シミュレーション)」はこちら
2020年5月の雑感
 今月に入って、立正大学では、前期はすべてオンライン授業にするという発表があった。ボクの場合、2カ月前に前期授業の完全オンライン化を宣言していたので、とりたてて驚くようなことではなかった。もっとも、オンライン授業化を発言したときには、反発や冷笑を呼び、周囲の反応はいまいちだった。しかしそれも、リスク・マネジメントの視点からすれば想定内だった。
 その当時、新型コロナウイルス感染症の専門家の中には、現在のような状況を予測した人がいた。先々月にも書いたが、専門家が10人いたら、最も悲観的な人の次に悲観的な人の意見をベースにして行動するのが、リスク・マネジメントの思考である。ボクは、その専門家の意見に従って、オンライン授業化の準備を始めたにすぎない。
 世の中は、緊急事態宣言が出てから、テレワーク化やウェブ会議化が進んでいるようだが、これはリスク・マネジメントではなく、クライシス・マネジメントだ。今のタイミングで、「前期はオンライン授業にしよう」はクライシス・マネジメントであり、「後期もオンライン授業にしよう」がリスク・マネジメントである。
 感染症の専門家の中には、冬になると南半球から流行の第2波が来ると警鐘を鳴らす人がいる。であれば、そうした悲観的な意見に従って、「今から」動き出すのが、リスク・マネジメントなのだ。そしてもし、第2波が来なかったら、「ハハハ、心配しすぎでした」と笑い流すのもリスク・マネジメントである。死者が出なければ、それに越したことはない。
 ただし、今のように、多数の死者が出たからといって、自分自身は「後から」動き出したにもかかわらず、「政府の初動が遅かった」「国の危機管理は機能していない」と批判するのは、「後だしジャンケン」であり、リスク・マネジメントとはほど遠い。リスク・マネジメントは、率先垂範であり、高みの見物ではない。先月にも書いたが、ボクは、2月には、マスクをつけながら講演し、「備えよ」と訴えていた。危機管理の専門家を名乗るのであれば、そのくらいの気構えを見せるべきだと思うが、違うだろうか。
 リスク・マネジメントの要諦は、「悲観的に準備し、楽観的に行動せよ」――これを多くの人が指針にしてほしい。
 そうこう考えているうちに、オンライン授業のスタートが迫ってきた。そこで、学生向けにそのデモ動画を作ってみた。犯罪機会論に興味がある方にもご覧いただきたい。
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2020年4月の雑感
 連日、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に関するニュースが報じられる中、ようやく政治家が公の場でマスクを着用するようになった。遅きに失した感は否めないが、まっ、よしとしよう。かくいうボクは、2カ月前から、マスクをつけて講演していた(写真は、2月15日に開催された講演会の模様を伝える北日本新聞)。講演会参加者のリスクマインド(危険予測思考)を高めるためには、ビジュアルなメッセージが必要と思ったからだ。
 講演会では、防犯の話に3分の2を割り当て、残りの3分の1はCOVID-19の話をした。もちろん、ボクは感染症の専門家ではないが、リスク・マネジメントの視点からの情報分析はできる。そこで、リスクマインドを高める市民レベルの対策を話した。
 それにしても、COVID-19対策と「犯罪機会論」は、思考枠組みがよく似ている。
 このウイルスの場合、感染した5人に4人は他人に感染させず、残りの1人(スーパースプレッダー)が多くの人に感染させているという(クラスター発生)。しかし、だれが感染を広める人なのかは分からない。これは、人に注目する「犯罪原因論」と同じフレームワークだ。つまり、ストレスを受けた人のほとんどは犯罪に手を染めず、少数の者だけが犯罪に走る。しかし、だれが犯罪を行うのかは分からない。
 他方、新型コロナウイルス感染を広める人がだれなのかは分からないが、感染が広まる場所は分かる。それが「3M」(密閉、密集、密接)だ。これは、場所に注目する「犯罪機会論」と同じフレームワークだ。犯罪を起こす人がだれなのかは分からないが、犯罪が起きやすい場所は分かる。それは「入りやすく見えにくい場所」である。
 知見面だけでなく、対策面においても両者は似ている。「犯罪機会論」においては、公園やトイレの設計は、利用者層別のゾーニング(すみ分け)を基本とする。しかしながら、日本は、歴史上、城壁都市を建設したことがないので、科学的なゾーニングの発想は乏しい。代わりに、「みんなで」という精神論がはびこっている。
 COVID-19対策においても、ゾーニングが重要なようだ。非感染者は家から出さない(外出禁止)、つまり、内から外への移動を禁じる「ロックダウン」、そして感染者は家に帰さない(施設隔離)、つまり、外から内への移動を禁じる「ロックアウト」がそれである。「3M」の温床になりかねない大学も、「ロックアウト」に踏み切った方がよい。
 というわけで、ボクの授業はすべてオンライン授業にすることにした。実は5年ほど前から、黒板を使わず、映像とパワーポイントを組み合わせた授業形式を採ってきたので、それを配信用教材として動画キャプチャするだけで事足りる。調査実習も、Googleストリートビューを使えば、フィールドワーク・シミュレーションが可能だ。
 ピンチをチャンスに変えようとする気構えがあれば、新しい地平が開けてくるに違いない。
2020年3月の雑感
 新型コロナウイルスの影響により、日本社会が危機管理の実験場となった様相を呈している。広義の危機管理には、平時に行うリスク・マネジメントと有事に行うクライシス・マネジメントがあるが、どうやら、リスク・マネジメントを十分に行わないうちに、クライシス・マネジメントに移行してしまったようだ。
 このあたりは、これまでの防犯対策とよく似ている。例えば、学校では、地域安全マップづくりによる景色解読力を高める教育(リスク・マネジメント)がないがしろにされる一方で、防犯ブザーの配布や走って逃げる練習(クライシス・マネジメント)が行われてきた。つまり、「襲われないためにどうする」ではなく、「襲われたらどうする」という発想が、まかり通ってきたのだ。
 新型コロナウイルスへの感染が日本で初めて確認されたのが1月15日、同ウイルスの発生地である武漢市が封鎖されたのが1月23日。しかし、日本が対策本部を設置したのが1月30日だった。一方、台湾では、同ウイルスへの感染が初めて確認されたのは1月21日だが、対策本部を設置したのは1月20日だった。つまり、日本は自国内感染と武漢封鎖の後に動き始めたのに対し、台湾は自国内感染と武漢封鎖の前にすでに動き始めていたのである。これが、リスク・マネジメント(台湾)とクライシス・マネジメント(日本)の違いだ。
 もちろん、政治家は感染症の専門家ではない。しかし、リスク・マネジメントの思考に慣れる必要はある。専門家が10人いたら、最も悲観的な人の次に悲観的な人の意見をベースにして予測するのが、リスク・マネジメントの思考だ。しかし、今回の対応は、8~9番目に悲観的な人(要するに、楽観的な人)の意見をベースにしたように思えてならない。信じたい情報ばかり探してしまう「確証バイアス」や、「たいしたことはない」と思い込む「正常性バイアス」が作用したのであろう。とりわけ、集団感染が起きたクルーズ船のゾーニングが不十分だったことの可視化は、日本の公園とトイレのゾーニングがグローバル・スタンダードに達していないと主張してきたボクの臨床研究を見ているかのようだ。
 リスク・マネジメントの基本は、「最善を望み、最悪に備えよ」「想定外のシナリオを想定せよ」である。分かりやすく言えば、「悲観的に準備し、楽観的に行動せよ」だ。映画の黒澤明監督も、「悪魔のように細心に、天使のように大胆に」と語っている。ところが、どうも日本では、「楽観的に準備し、悲観的に行動する」ことが多い。
 月をまたいで、局面はクライシス・マネジメントへと移った。政府が打ち出した対策については、「独断専行」「事前の相談もなく」「見切り発車」といった批判が多いが、そうした主張も、リスク・マネジメントとクライシス・マネジメントの違いを踏まえていない。リスク・マネジメントではボトムアップだが、クライシス・マネジメントではトップダウンが定石である。「孫子の兵法」でも、「拙速(短期決戦)の成功例は聞くが、巧遅(長期戦)の成功例を見たことはない」と書かれてある。もっとも、今回のケースでは、リスク・マネジメントが不十分であったため、クライシス・マネジメントの副作用は、その分大きくなるが――。
 実話を描いたナショナル・ジオグラフィックのテレビドラマ『ホット・ゾーン』(写真左)と、科学的考証に基づいて作られた映画「コンテイジョン」(写真右)は、感染症の危機管理の入門編として参考になる。
2020年2月の雑感
 恩師大橋薫先生が亡くなられた。97歳だった。先生がいなかったら、ボクが立正大学で教鞭をとることもなかった。始まりは22年前。大橋先生が、立正大学の非常勤講師の定年を迎えるとき、後任にボクを指名したのだ。当時、ボクが指導を仰いでいた細井洋子教授が指導を仰いでいたのが大橋先生、というつながりでボクに白羽の矢が立ったようだ。それから3年を経て常勤の助教授になるわけだが、その間も陰に陽に専任への道を導いてくださった。
 細井先生たちが立ち上げた、大橋先生を囲む会でも親しく接していただいた。この会は、大橋薫先生の名前から一字を取って「薫陶会」と名付けられた。会では最年少ということもあって、怒られた記憶がない。いつも褒められ、励まされていた。そんな先生から、もう声をかけてもらえないのかと思うと、何とも切ない。仰ぎ見る人がいなくなるということは、研究の張り合いを失うことでもあるようだ。学恩に感謝するとともに、心からご冥福をお祈りしたい。
2020年1月の雑感
 年末年始の休暇を利用して、『HOSTAGES ホステージ』という米国発のテレビドラマ(全15話)を見た。シーズン1で打ち切りになったので、人気がなかったようだが、ボク的には面白かった。犯罪もののドラマでは、通常、悪玉と善玉をはっきり色分けして、ストーリーを分かりやすくするが、このドラマは、そうではなかった。登場人物は、アンビバレント(相反する感情が同時に存在するさま)な感情を抱く人物として描かれ、右に振れたり、左に振れたり、その人が加害者なのか被害者なのかさえ判断できない。つまり、性悪説と性善説という二分法では到底理解できないストーリー展開なのだ。おそらく、犯罪原因論にどっぷり漬かっている人にとっては、とても違和感のあるドラマであろう。しかし、犯罪機会論の思考に慣れた人にとっては、納得できるドラマに違いない。「人の行動は状況や環境に対する応答である」という人間観がよく表れた作品だった。
2019年12月の雑感
 報道によると、SNS(交流サイト)を悪用した誘拐事件が相次いでいるという。もちろん、それは大問題だが、報道の仕方にも問題がありそうだ。

1 「約3時間半後、約700メートル離れた小山市内の交番を訪れて保護された」との報道。なぜ、3時間半も歩き回らなければならなかったのか。埼玉県朝霞市の誘拐事件でも同様なことがあったが、それは、「子ども110番の家は、危ないと思ったときに逃げ込める家」と子どもたちに教えているからだ。確かに「子ども110番の家」は、地域の子どもたちを見守ろう、助けようという気持ちを表しているので、地域力のアピールになり防犯に有効である。しかし子どもたちには、「危ないと思ったときには最も近くにある家や店、歩いている人に助けを求めよう」と教えるべきだ。人々の善意が、「だれにも助けを求められない子ども」を量産している。詳しくはこちら

2 「〇〇〇〇さんは女児とみられる子どもを目撃した。『寒そうに背中を丸めてとぼとぼと歩いていた。雨も降っていたのに傘を差していなかった。後でニュースを見て、あの女の子だと気が付いた』と振り返った」との報道。なぜ、目撃者は声をかけなかったのか。それは、「不審者に注意しなさい」と子どもたちに教えているからだ。子どもたちはそう教えられると、周囲の大人を不審者ではないかと疑うようになる。他人を疑えば疑うほど、不審者のイメージはサングラスやマスクをしている人から普通の外見の大人へと広がっていく。その結果、不審者は「知らない人」を意味するようになる。そうした状況下では、大人は不審者扱いされたくないので、子どもに声をかけづらくなるのだ。「不審者」という言葉が幅を利かせているのは日本だけである。詳しくはこちら

3 「警察は動機の解明を焦点に伊藤容疑者と女の子の通信履歴を解析するなど、捜査を進めている」との報道。しかし、これは誤報だ。法律が警察に課している仕事は、事実の確定であって、動機の解明ではない。そのため、警察には、動機を解明する専門家はいない。検察や裁判所にもいない。だからこそ、彼らは「法執行機関」と呼ばれているのだ。

4 「情報モラル教育などで子どもたちにSNSの危険性を周知している」との報道。しかし、SNSを悪用した誘拐事件を防ぐために、まずやらなければならないことは、バーチャルな世界の中の防犯ではなく、リアルな世界の中の防犯である。リアルな世界で、「入りやすく見えにくい場所」と「入りにくく見えやすい場所」の区別ができるようになれば、バーチャルな世界では、それを応用するだけだ。例えば、インターネットの世界は、元々「入りやすく見えにくい場所」だから、そこを何とか「入りにくい場所」にしようとするのが「フィルタリング」であり、「見えやすい場所」にしようとするのが「実名登録」であると気づいたり、SNSで知り合った人とリアルな世界で会うのであれば、「入りにくく見えやすい場所」にしようと思ったりするだろう。「SNSは危険」と叫ぶだけでは、子どもたちの心には残念ながら響かない。
2019年11月の雑感
 約1カ月半にわたり盛り上がりを見せたラグビーのワールドカップ日本大会が終わった。史上初めてベスト8入りした日本代表の躍進に日本中が驚き、ラグビー人気が沸騰した大会となった。とりわけ、静岡スタジアムで日本が世界ランキング2位の優勝候補アイルランドを撃破した試合は、海外メディアが「静岡ショック」と報じた。
 アイルランド戦前日、「NHKスペシャル」でラグビー日本代表の特集番組が流れた。そこでは、「名将エディー・ジョーンズのあとチームを引き継いだのは、ニュージーランド人のジェイミー・ジョセフ。決め事重視だったエディー時代の戦術を一変させ、『リスクを恐れず、状況判断しながら大胆に攻める』戦い方を導入した」(NHKホームページ)と報じていた。確かに、前回W杯から4年間、日本代表を見てきたボクも同じ見方をしていた(2017年、ボクは日本対アイルランド戦を東京スタジアムで生観戦した)。
 しかし、実際の試合は、エディー時代の戦術を愚直に繰り返すものだった。つまり、NHKもボクも、そしてアイルランドも、まんまとだまされたのだ。この試合を見て、「孫子の兵法」を思い出した(写真)。孫子は、「兵とは詭道なり(争いとはだまし合いである)」と説いている。日本代表は、この教えを忠実に守ったかのように見えた。
 その上で、孫子は「攻め」よりも「守り」を重視する。「負けにくいかどうかは自分の努力次第だが、勝ちやすいかどうかは相手の出方次第だから」という。つまり、同じ努力をするなら、その成果が出る確率の高い「守り」に傾注すべきというわけだ。
 犯罪者が抱える原因を取り除こうとする犯罪原因論は「攻め」の犯罪学で、被害に遭いにくい環境を作ろうとする犯罪機会論は「守り」の犯罪学だ。人の性格や境遇は千差万別なので、犯罪の動機や原因も人それぞれだ。そのため、原因除去のための治療法や支援策が、犯罪者のニーズにぴったり合えばいいが、ミスマッチの可能性は高い。これに対して、犯罪の機会は環境を改善すればするほど減っていく。つまり、努力に比例して確実に犯罪を減らせるのだ。
 そういえば、ラグビーW杯アイルランド戦の勝因についても、有識者は「ディフェンスの良さ」と口をそろえていた(例えば、アイルランド主将、日本ラグビー協会強化委員長、立正大学ラグビー部監督)。ラグビーと防犯の共通点を見つけて、二重の喜びを感じたアイルランド戦だった。
2019年10月の雑感
 列島を襲った台風19号は、河川の氾濫や住宅の浸水など、全国各地に深い爪痕を残した。北陸新幹線も、車両基地が浸水被害に遭うなど大打撃を受け、東京―北陸間の直通列車が運休した。富山までの切符を購入していたボクも、急遽、石川県の小松空港経由のルートで富山に向かう羽目になった。報道によると、4メートル以上浸水した新幹線車両基地は、長野市の洪水ハザードマップでは、最大10メートル以上の想定浸水域だったという。やはりここでも、リスク・マネジメントの弱さを露呈することになった。いくらBCP(事業継続計画)や危機管理マニュアルを作成しても、一人ひとりがリスク・マネジメントとクライシス・マネジメントの違いすら理解していないのでは、絵に描いた餅になるだけだ。
 折しも、東日本大震災の津波で犠牲になった児童の遺族が、行政に損害賠償を求めた訴訟で、最高裁は市と県の上告を棄却する決定を出した。津波被害をめぐり、公共施設を管理する側に事前の対策の不備を認めて賠償を命じた判決が確定するのは初めてだ。原告への賠償金は20億円を超すという。この最高裁決定を受け、マスコミは「事前防災が極めて大切」「学校の防災への真剣な姿勢も子どもの生きる力を高める」「学校は『災害弱者』である子どもたちを預かっている」と唱えたが、もう一歩進んで、「防災だけでなく、防犯や事故防止についても、『事前の備え』の重要性を認識すべき」と唱えてほしかった。多くの人にリスク・マネジメントとクライシス・マネジメントの違いを知らしめるために、マスコミには、従来の縦割り報道に横串を刺す報道をしてほしい。
 ちなみに、イギリスの「犯罪及び秩序違反法」は、地方自治体に対して、犯罪への影響と犯罪防止の必要性に配慮して各種施策を実施する義務を課している。内務省の説明書では、地方自治体がこの義務に違反した場合には訴えられる可能性があると指摘されている。「想定外を想定する」「最悪に備える」がリスク・マネジメントの基本。命を守るためには、「施設や制度を悪用しようとする人間は必ずいる」という前提で、施設整備や制度設計を行う必要があるのだ。
2019年9月の雑感
 イギリス犯罪学会の学会誌にボクが書いた論文「日本の低犯罪率の文化的考察」が掲載されてから20年が過ぎた。もっとも、論文のアイデアは、ケンブリッジ大学大学院の学位論文にルーツがある。この論文は、驚くことに、犯罪学研究科の大学院生46人の中のトップ6に入る評価を受け(採点者は学外の権威で氏名は非公開)、指導教授のボトムズ先生からは学会誌への投稿を強く勧められた。その後、投稿まで5年を要したが、査読も無事クリアし、ようやく活字になった。
 あれから20年。ボトムズ先生の予想通り、この論文は世界中の多くの研究者の関心を集め、論文の引用数は100編を超えた。ありがたいことだ。最近出版された、ケンブリッジ大学時代の恩師ファーリントン先生らによる『日本の犯罪』も、かなりの紙幅を割いて、ボクの論文を引用してくださった(写真)。
 しかしながら時代は変わった。ボクがこの論文で指摘した日本の低犯罪率の原因は消えつつある。その原因とは、集団主義(「うち」)のことだ。日本の集団は、一方では、強烈な同調圧力によって日本人を「我慢強い人」に育て、他方では、お節介焼きを配備し、犯罪の誘惑に負けそうな人を監視・矯正してきた。集団による過干渉と過保護によって、欧米に多い「犯罪へと流されやすい漂流者」を生まずに済んでいたのだ。反面、集団主義の帰結として、集団内で起こる犯罪は、もみ消され、隠蔽されてきた。集団外(「よそ」)に助けを求めれば村八分になるので、被害者はうつになり自殺を余儀なくされた。警察も、「よそ者」なので、集団内の犯罪は犯罪と認知しなかった。結果、犯罪率は低くなり、自殺率は高くなった。
 しかし近時、スポーツ界の不祥事や日産の司法取引に象徴されるように、集団内で起きたパワハラ、セクハラ、いじめ、体罰、虐待などが明るみに出るようになった。同時に、集団による過干渉と過保護を受けないニート、引きこもり、フリーターも増えた。インターネットは集団主義の前提となる「場」を無意味化し、働き方改革も集団の拘束力を弱める。そうなると、同調プレッシャーに起因する自殺は減るものの、「犯罪へと流されやすい漂流者」が集団から解き放たれ、さらに、集団内で守られてきた(隠蔽してもらえた)累犯者が獲物を集団外に求めるようになるだろう。
 集団主義が崩れていくとしたら、それは日本の歴史上、初めてのことかもしれない。犯罪は自由の対価なのか――グローバリゼーションが突きつける難問である。
2019年8月の雑感
 連日、「あおり運転」のニュースが世間を騒がしている。20年ほど前になるが、アメリカ各地を調査旅行していたとき、この「あおり運転」が大きな社会問題になっていた。写真は、そのときにいただいた啓発用の自動車ステッカー。「あおり運転」を英語では、「ロードレイジ(路上の激怒)」と表現する。そういえば、スティーヴン・スピルバーグ監督のデビュー作「激突!」も、「あおり運転」を扱っているので、もっと昔から問題になっていたようだ。
 ボクがこのステッカーを手にしたときには、おとなしい日本人には無縁の問題のように思えたが、それから20年、日本人の怒りの沸点が低くなり、とうとうここまで来てしまった。その意味では、京アニ放火事件や川崎襲撃事件と通底するかもしれない。「我慢が美徳」だった昭和は遠くなりにけり。ますます「消費社会化」が進み、犯罪形態も欧米化していくのであれば、犯罪対策もそれに連動して、欧米で普及している「犯罪機会論」に大きく舵を切るべきではないか。ちなみに、ロードレイジの研究によると、人格(犯罪原因論)の影響は、車格(犯罪機会論)の影響より小さいという。
2019年7月の雑感
 京都アニメーションのスタジオで放火殺人事件が起きた。川崎・登戸の刺殺事件、大阪・吹田の交番襲撃事件と、3か月連続で「自爆テロ型」の犯行を許してしまった。にもかかわらず、日本社会は、いまだに重い腰を上げようとしない。京アニ放火事件でも、「なぜ逃げられなかったのか」ばかりが議論されている。しかしこれは、危機が起こった後の「クライシス・マネジメント」であって、危機が起こる前の「リスク・マネジメント」ではない。両者は安全確保における車の両輪だが、その決定的な違いは、リスク・マネジメントは被害をゼロにできるが、クライシス・マネジメントは被害をゼロには戻せない、ということだ。中国最古の医学書にも、「名医は既病を治すのではなく未病を治す」と書かれてある。今どきの言葉を使えば、「予防に勝る治療なし」だ。もう少し、「なぜ犯行を阻止できなかったのか」を議論してもよいのではないか。
 京アニ放火事件の一報を聞いて、真っ先に相模原の知的障害者施設「津久井やまゆり園」の殺傷事件が脳裏に浮かんだ。当事者たちが取った再発防止策に、事件の教訓は生かされているのだろうか。そう思って、神奈川県「津久井やまゆり園再生基本構想」を調べてみた。すると、「防犯ガラスの取付けや、警備会社と連動したセンサー付防犯カメラ、周囲に異常を知らせる防犯ブザーなど、必要な防犯設備を整備」という文章を見つけ愕然とした。「防犯ガラスや、警備会社と連動したセンサー付防犯カメラ」は侵入窃盗の対策であり、「防犯ブザー」はそもそも設備ですらない。つまり、「自爆テロ型」の犯行を受けたことを忘れてしまっているのだ。これでは、被害者が浮かばれない。
 スタジオや施設の守りを固めるには、「防犯環境設計」が不可欠だ。「防犯環境設計」は、「犯罪機会論」のハード面を担う理論で、建物のデザインや敷地のレイアウトによって、守るべきエリアの「領域性」と「監視性」を高める手法である。これに最先端のICT(情報通信技術)を加えれば、「自爆テロ型」の犯行も阻止できる「多層防御」が実現するかもしれない。被害者の無念の叫びは、いつになったら日本社会のリーダーたちに届くのだろうか。
2019年6月の雑感
 先月末、川崎市多摩区の登戸駅近くの路上で包丁を持った男が、スクールバスを待っていた児童らを襲い、20人が死傷した。容疑者の51歳の男は、直後に自らも首を刺して自殺したため、犯行動機は闇に包まれたままとなった。もっとも、マスコミが入手できた男の顔写真が中学時代のものだけであることから、思い出を共有できる人もなく、疎外感や孤立感を深めた結果の「拡大自殺」であったと思われる。つまり、人生に嫌気が差したものの、一人で死ぬのは不甲斐ないので、社会に大きな衝撃を与え、自分の存在を証明してから自害したかったのではないのか。男の人生にとって、成功や幸福のシンボルであった「カリタス」が大量殺人の標的になってしまったのだろう。度重なる交番襲撃事件の背景にも、こうした絶望感が見え隠れする。
 こうした「自爆テロ型」の犯行はどうすれば防げるか。「捕まりたくない」と思っている犯罪者を想定した「地域安全マップづくり」や「ホットスポット・パトロール」では防ぎきれない。「走って逃げる」や「見守りの強化」も無理だ。これを主張する人は、川崎殺傷事件で使われた刃渡り30センチの柳刃包丁を一度見た方がいい(写真の柳刃包丁は刃渡り24センチ)。見るだけで身の毛がよだつに違いない。ニューヨーク大学のジョゼフ・ルドゥー教授によると、「恐怖は思考よりも早く条件反射的に起こる」という。とすれば、対処しようと思う前に、恐怖で体が硬直してしまうはずだ。
 やはり、拳銃を携帯している警察官にしか、この種の凶行は阻止できないと言わざるを得ない(実際、同日にさいたま市で起きた刃物振り回し事件では、警察官の発砲により被害を防いだ)。問題は、いかにして、犯人がターゲットにたどり着く前に、警察官が現場に駆けつけられるかだ。そのためには、最新テクノロジーの力を借りなければならないのかもしれない。そういう方向で生産的な議論が始まればよいのだが。
2019年5月の雑感
 今月15日、「割れ窓理論」の創設者ジョージ・ケリング先生が亡くなった。アメリカ生まれの「割れ窓理論」は、「犯罪機会論」のソフト面を担う重要な理論で、理論が重視する「秩序の乱れ」は、イギリスでは法律の名前にまで採用されている(Crime and Disorder Act 1998)。
 この理論で言うところの「割れた窓ガラス」とは、管理が行き届いてなく、秩序感が薄い場所の象徴である。言い換えれば、「割れた窓ガラス」は地域社会の乱れやほころびを表す言葉であり、その背景に地域住民の無関心や無責任があることを想像させる。
 ケリング先生は、かつて自身が訪問した日本の交番が、「割れ窓理論」のアイデアに結びついたと述べている。確かに交番の役割は、犯人の逮捕(犯罪原因論)というよりもむしろ地域の支援(犯罪機会論)である。
 「割れ窓理論」が、地域に目を向け、その秩序の乱れ(公共施設の割れ窓、落書き、不法投棄ゴミ、放置自転車、汚い公衆トイレ、廃屋・廃車など)を重視するのは、「悪のスパイラル」と呼ばれる心理メカニズムを信じているからだ。秩序の乱れという「小さな悪」が放置されていると、一方では人々が罪悪感を抱きにくくなり(悪に走りやすくなる)、他方では不安の増大から街頭での人々の活動が衰える(悪を抑えにくくなる)。そのため、「小さな悪」がはびこるようになる。そうなると、犯罪が成功しそうな雰囲気が醸し出され、凶悪犯罪という「大きな悪」が生まれてしまうというわけだ。
 日本でも、『水文・水資源学会誌』で、水質汚濁が著しい河川の流域ほど犯罪発生率が高いという分析結果が報告されている。
 このメカニズムは、経営管理論や組織論にも当てはまるのでは、ということで、「割れ窓理論」は、今や学校や会社でも採用されている。
 ボクを研究室に温かく迎え入れてくれたときの、ケリング先生の笑顔が忘れられない。先生のご冥福を祈る。
2019年4月の雑感
 大学も新年度が始まった。最近の大学生は、出席率はいいものの、質問率や発言率が極端に低い。そこには、冒険よりも無難を選ぶ気質が見え隠れしている。しかしこれでは、競争や革新が求められる職業生活に耐えられるのか、はなはだ心もとない。
 もっとも、大学生だけを責めるわけにもいかない。なぜなら、こうした学生気質は、「記憶力」を評価の基準にしてきた学校教育がもたらしたものだからだ。しかし、コンピュータやインターネットが高度化した現代社会では、「記憶力」の重要性は低下の一途をたどっている。
 記憶の仕事はアウトソーシングすれば事足りる。これからは、外付けした「自己の記憶」やサイバー空間に広がる「社会の記憶」に、いかに早く、しかも的確にアクセスできるかが問われるだろう。デジタル時代には、こうした「検索力」こそが、重要になるのである。
 さらに、そうしてかき集めた「断片的な記憶」を「使える記憶」に編集する「変換力」も必要だ。この作業は、「ビッグデータからスマートデータへ」「インフォメーションからインテリジェンスへ」などとも呼ばれている。いずれにしても、「記憶力から検索力・変換力へ」のシフトが、ダーウィン流の「適者生存」の道と言えよう。
 やっかいなのは、AI(人工知能)である。AIは、記憶力だけでなく、検索力と変換力も得意とするからだ。AIが進化すれば、人間は太刀打ちできない。それでも、人間がAIに勝ることがあるとすれば、それは、「記憶→検索→変換」というプロセスから逸脱した「何か」に違いない。その能力を、ボクは、統計学にならって「外れ値力」と呼んでいる。そんなこともあって、ボクの授業では、フィールドトリップやフィールドワークを多用しているのだが、その話はまた別の機会に。
2019年3月の雑感
 先月、NHKの大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」に触れたのも束の間、大河ドラマ史上最速で視聴率1桁に転落したというニュースが飛び込んできた。
 そうかな~。面白いんだけどな~。
 まっ、人それぞれなので、それも致し方ないが、ボクはと言えば、嘉納治五郎流の「違いを知らない日本人」というフレーム(思考の枠組み)が、ますます気に入っている。講演参加者の反応が、すこぶるよいからだ。確かに、右か左か、敵か味方か、在るか無いか、といった2分法は分かりやすい。もちろん、それには弊害もあるが、少なくとも、発想の転換には有用だ。「リスクとクライシスの違い」から始まって、「ランダム・パトロールとホットスポット・パトロールの違い」や「パークとプレイグラウンドの違い」にたどり着けば、犯罪機会論の全貌が見えてくるに違いない。
2019年2月の雑感
 先月に引き続きオリンピックの話で恐縮だが、ボクはオリンピックにはうるさい。その始まりは1964年の東京オリンピック。なんと小学校の遠足で、自転車ロードレースを見に行ったのだ。もっとも、人がたくさんいたという記憶しかない。競技場を訪れたのは1976年のモントリオールオリンピック。女子バレーボールや男子体操団体の金メダル獲得の感動を会場で味わった。う~ん、ただ、史上最大の感動は、会場には行っていないが、1998年の長野オリンピックのスキージャンプ団体かな。逆転負けした前回のリレハンメルオリンピックから続くストーリーは、名脚本家でも書けないシナリオだ。今でも思い出すと、目がウルウルしてしまう。
 ボクがオリンピックを好きなのは、世界中の人々が、肌の色や宗教の違いを乗り越え、友情を深めるために集まるからだ。その多様性と親密性がワクワクさせる。そういえば、世界地図を見るのも、子どものころから好きだった。理由はよく分からないが、今も、自宅のトイレや風呂には世界地図が張ってある。もちろん、大学の研究室にも。
 というわけで、NHKの大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」は、当然見ている。番組では、スポーツと体育の違いを知らない日本人に、その違いを理解させようとする嘉納治五郎の苦労にスポットが当てられている。そのシーンを、勝手にボクの仕事と重ねている。犯罪原因論と犯罪機会論の違い、リスク・マネジメントとクライシス・マネジメンの違い、予知と予測の違い、防犯カメラと捜査カメラの違い、マンツーマン・ディフェンスとゾーン・ディフェンスの違い、などなど。そうした違いを知らない日本人に、どこが違うのかを理解してもらうのがボクの仕事なんだと――「任重くして道遠し」ではあるが。
2019年1月の雑感
 年が改まり、1年半後に迫った東京オリンピックが身近に感じられるようになった。このオリンピックを模して、世の中には様々な「オリンピック」が存在する。建築のオリンピック「ベネチア・ビエンナーレ」、食品のオリンピック「モンドセレクション」、マジックのオリンピック「フィズム」、ゲームのオリンピック「ワールドサイバーゲームズ」、花のオリンピック「フロリアード」などなど。
 もし、防犯対策のオリンピックが開かれるとしたら、どんな感じになるだろうか。さしずめ、イギリス、アメリカ、カナダ、オランダがメダル候補というところか。これらの国は、犯罪機会論の先進国だ。残念ながら、犯罪機会論が普及していない日本は、泡沫候補と言わざるを得ない。
 ボクが留学していたイギリスのケンブリッジ大学犯罪学研究科(写真)では、月曜から金曜の朝から晩まで、犯罪学(心理学、社会学、精神医学、法学)の授業がズラッと並んでいた。刑務所を訪問して、受刑者とディスカッションする授業もあった。一方、アメリカには、犯罪学の単科大学もある。ちなみに、立正大学の姉妹校であるサザンメイン大学(メイン州)にも犯罪学科がある。日本はと言えば、犯罪学科を擁する大学は一つもなく、犯罪学を学べる大学もほんのわずかしかない。東京オリンピックを見据えた選手の育成もいいが、オリンピック後を見据えて、防犯対策の専門家の養成も少しは考えてほしいものだ。
2018年12月の雑感
 今年は、あの宮崎勤事件からちょうど30年になる。しかし未だに、子どもの防犯の世界では、「走って逃げろ」といった精神論や、「いかのおすし」といった「大人が楽しむ言葉遊び」がまかり通っている。
 子どもが被害に遭う事件のほとんどは、子どもがだまされて自分からついていくパターンなので、そもそも走って逃げようとはしない。宮崎勤事件もサカキバラ事件もそうだった。
 大人が面白がって子どもに教えている「いかのおすし」も、一つひとつの内容をスラスラ言える子はほとんどいない。「知らない人についていかない」と教えても、千葉県松戸市でリンちゃんを連れ去ったのは、登下校の見守り活動に従事する「知っている人」だ。
 相手がだれだろうが、子どもがだまされないためには、絶対に子どもをだまさないものを見るしかない。それは景色。人はウソをつくが、景色はウソをつかない。やはり、安全と危険は、「人」を見て判断するのではなく、「景色」を見て判断すべきものなのだ。そして、その判断基準は、「入りやすい」と「見えにくい」。この「ものさし」さえあれば、景色からの警告メッセージをキャッチできる。例えば、新潟市で今年5月に起きた女児殺害事件でも、交通事故を装って子どもを連れ去った現場は「入りやすく見えにくい場所」だった。ガードレールがなく、空きアパートと線路に囲まれているからだ。
 子どもの命を守るためには、大人と子どもの「景色解読力」の向上が急務である。

   ★誘拐現場の動画はこちら
2018年11月の雑感
 今月3日、小宮ゼミの卒業生が作ったNPO法人「地域安全マップ協会」の設立10周年記念パーティーが開かれた。集まった教え子たちの年齢差は最大で16歳。大同窓会になった。地域安全マップづくりの普及に尽力された方々も駆けつけた。卒業生の「縦の絆」と社会運動家の「横の絆」を感じ取れた一日だった。

★「地域安全マップ協会」設立10周年記念パーティーの余興映像(一部)はこちら
2018年10月の雑感
 大阪府警富田林署から逃げた樋田淳也容疑者が、先月末、山口県周南市で逮捕された。逃走から48日ぶりの身柄確保だった。随分と時間がかかったと思われているが、千葉県で英国人女性を殺害したとして逮捕された市橋達也受刑者の逃走劇は、2年7か月に及んだ。そういえば、市橋受刑者も、樋田容疑者と同じように、四国でお遍路を歩いていた。
 その市橋受刑者が出版した手記を読むと、逃亡者が選ぶ潜伏先も、犯罪機会論のキーワード「入りやすい」「見えにくい」に合致していることが分かる。例えば、写真左中央の三角屋根は、青森で寝泊りしていた多目的トイレ。公衆トイレなので「入りやすい場所」である。しかし、長期間トイレを占有していると、クレームが入り不法占拠が発覚するものだが、このトイレの場合、目の前に観光物産館があり、トイレ利用者はまったく不自由しない。その意味で、異変に気づきにくい「見えにくい場所」だ。写真右は、新聞を読みあさっていた図書館。公共図書館なので、だれでも利用できる「入りやすい場所」であり、新聞閲覧コーナーに座れば、顔を見られない「見えにくい場所」になる。
 このように、犯罪機会論は、意外なところでも活躍できるのである。
2018年9月の雑感
 先月、犯罪防止に貢献した人を表彰する「作田明賞」を受賞した。審査員の一人、龍谷大学の浜井浩一教授は「地域安全マップは、社会に最も受け入れられた犯罪学のプログラム」と選考理由を語った。
 地域安全マップは、誕生してから今年で16年になる。人間で言えば、高校生。未熟ではあるが、少しは社会貢献できる年齢だ。そうした評価と期待を踏まえた結果の栄誉だと思う。もっとも、地域安全マップをここまで成長させてくれたのは、ボクが出会った人たち――脳裏をよぎるのは、次の人たちだ。
 文部科学省の戸田さん(元体育官)、警察庁の国松さん(元警察庁長官)、竹花さん(元東京都副知事)、田村さん(元警察大学校長)、高橋さん(元警視総監)、河合さん(元警察政策研究センター所長)、広島県警の小西さん、青森県警の鎌田さん、子どもの危険回避研究所の横矢さん、エクスプローラー北海道の佐藤さん、ノンフィクションライターの藤井さん、大阪教育大学附属池田小学校の孕石先生、福山大学の平先生、北陸大学の山本先生、玉川大学の寺本先生、香川大学の大久保先生、海外展開を支援してくれた公共政策調査会と保安通信協会、国内展開を後押ししてくれた毎日新聞と東京海上日動、それからもちろん、地域安全マップ協会の理事たち、立正大学犯罪社会学研究会の学生たち……。
 地域安全マップを温かく育てていただき、感謝に堪えない。
2018年8月の雑感
 立正大学の社会学科では、3年次に本格的なフィールドワークを行う「社会調査実習」を置いている。ボクの「社会調査実習」でも、「地域安全マップづくり」というアクティブ・ラーニング(課題の発見・解決に向けた主体的・協働的な学び)を行っている。この「地域安全マップづくり」は、アクティブ・ラーニングよりもワンランク上のアクション・リサーチ(単に対象者を一方的に調査する手法ではなく、調査者が対象者と一緒に活動し、現場での化学反応を調査しながら、当事者と共に変化を巻き起こし、新しい社会を生み出すための共同的・実践的な質的調査)という形式を取っている。
 立正大学は、大学全体としても、「経験知(科学的創造性を支えている身体を基盤とする知識)」が身につく教育をアピールしており、「地域安全マップづくり」は、まさにその推進力となる授業である。
 ところが、2年次には、こうした「経験知」に特化した科目がない。そこで、今年度は、「社会学基礎演習」で、「経験知」を射程に収めた授業を実験的に行ってみた。立正大学と公立施設とのパートナーシップ制度を利用して、4回のフィールドトリップ(国立科学博物館、立川防災館、江戸東京博物館、東京都写真美術館)を実施し、それを踏まえて大学生向けの商品・サービスを企画・開発するというものだ。
 履修者は、おとなしい学生ばかりだったので、当初はどうなることかと心配していたが、授業の最終回に見せた、グループごとのプレゼンテーションは予想以上の出来だった(写真はそのときの企画書の数々)。引っ込み思案の学生であっても、リアルを見せ、リアルに感じさせ、リアルに考えさせれば、ステップを一段上ることができる。そう改めて気づかされた。
2018年7月の雑感
 世はまさに情報化の時代である。コンピュータとインターネット、すなわちICT(情報通信技術)の進展が著しい。これに伴って、子どもの居場所を把握するサービスが活気づいている。全地球測位システム(GPS)やICタグ(電子札)を活用して、子どもの位置情報を得ようというわけだ。
 確かに、現代社会にあっては、最新のハイテク機器を利用しない手はない。しかし、その立ち位置を見間違えると、子どもをかえって危険な状況に追い込むことにもなりかねない。
 「危機管理」と呼ばれるものには、危機が起こる前の「リスク・マネジメント」と、危機が起こった後の「クライシス・マネジメント」の2種類がある。両者は安全確保における車の両輪だが、その決定的な違いは、リスク・マネジメントは被害をゼロにできるが、クライシス・マネジメントは被害をゼロには戻せない、ということだ。
 ICTを活用した子どもの見守りは、カテゴリー的には、クライシス・マネジメントに属する。防犯ブザーや「大声で助けを呼ぶ」「走って逃げる」といった護身術と同類だ。これらはすべて襲われた後のことであり、犯罪はすでに始まっている。ICTを活用した子どもの見守りも、「ここでいなくなった」「ここへ連れて行かれた」、そして最悪な場合、「ここで殺された」が分かるだけである。
 そもそも、子どもの連れ去り事件の過半数は、だまされて自分からついていったケースだ(警察庁「略取誘拐事案の概要」)。宮崎勤事件も、神戸のサカキバラ事件も、奈良女児誘拐殺害事件も、だまして連れ去ったケースである。クライシス・マネジメントでは、こうした事件を防ぐことはできず、たとえ被害を免れてもトラウマ(心的外傷)は残る。
 これに対し、リスク・マネジメントなら、事件そのものを防ぐことができる。なぜなら、リスク・マネジメントは、犯罪者に襲われたらどうするかではなく、犯罪者に近づかれないためにどうするか、というアプローチだからだ。つまり、リスク・マネジメントだけが、「防犯」の名に値するのである。
 リスク・マネジメントで最も重要なことは「予測」である。危険を予測できれば、注意深くなったり、行動パターンを変えたり、環境を改善したりして、危機を回避できるはずだ。しかし、危険を予測できなければクライシス・マネジメントの出番になってしまう。
 危険を予測するためには、景色を診断して、犯罪者が現れやすい場所かどうかを見極める必要がある。その訓練方法が、「景色解読力」を高める「地域安全マップづくり」である。
 真の防犯を実現するためには、「防犯」と名のつく対策が、リスク・マネジメントなのか、それともクライシス・マネジメントなのかを見分けることから始めなければならない。
2018年6月の雑感
 サッカーのワールドカップが始まった。イニエスタのJリーグ移籍で、スペインに注目が集まっているが、ボクも学生と一緒に、イニエスタのホームグランドだったバルセロナのカンプノウ・スタジアムを訪れたことがある(写真)。バルセロナ日本人学校で開かれた「地域安全マップ教室」の合間を縫ってのことだ。その目的は、一つにはフーリガン対策として採用されているゾーニングを確認すること(犯罪機会論的に言うならば、双方のサポーターの観戦エリアを相互に「入りにくい場所」しているのを見ること)。もう一つは、サッカーの戦術と防犯対策の考え方との類似性に思いをめぐらすことだ。
 日本の防犯は、防犯ブザーや叫んで逃げるといった「犯人と向き合う」やり方に終始している。これはマンツーマン・ディフェンス(個別的防犯)だ。しかし、弱者である子どもや女性にマンツーマン・ディフェンスをさせるのは酷である。サッカーでも、強豪国のように、体格や技術が勝っていればマンツーマン・ディフェンスも有効だが、日本代表の活路は、連動性に根差したゾーン・ディフェンスにしかないだろう。同様に、防犯の世界でも、子どもや女性を守りたければ、「犯行場所にさせない」というゾーン・ディフェンス(集団的防犯)の発想が必要だ。公共空間を「入りにくく見えやすい場所」にするのである。そんなことを考えながら、ワールドカップを観戦すれば、サッカーのもう一つの楽しみ方が見つかるかもしれない。
2018年5月の雑感
 大阪府熊取町で2003年、小学4年生が行方不明になった事件は、今月で発生から15年を迎える。ここにきて新たに、自宅近くで女児が乗った車が目撃されていたというニュースが流れ、にわかに事件解決への期待感が高まってきた。
 ボクも、2007年に現場を訪れ、女児が事件当時通っていた小学校の校長先生に案内していただいた。特に印象に残っているのは、現場に到着した車から降りた直後、校長先生が発した第一声だ。「先生、見てください。こんな普通の、危なくない道で誘拐されたんですよ」。しかし、そこは、犯罪者が好む典型的な場所だった。「いやいや、校長先生。ここは、ものすごく危ない道ですよ」。そう、そこは、幹線道路に近くガードレールがない「入りやすい場所」、そして道の両側に、立派な石垣や植栽、高いブロック塀やコンクリート塀が並ぶ「見えにくい場所」なのだ(写真参照)。ボクらの言葉を使えば、そこはまさに、「トンネル構造」であり、警戒レベルを最大限に引き上げなければならない場所だったのだ。
 この事件から学ぶべきこともやはり、「景色解読力」の重要性のようである。

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2018年4月の雑感
 大学の新年度が始まった。今年度から講義スタイルを大きく変えて、写真と動画を多用することにした。スマホを使った教育クイズアプリ(Kahoot!)も導入した。その理由としては、教科書に写真集(写真でわかる世界の防犯 ――遺跡・デザイン・まちづくり)を採用したこともあるが、何といっても、インターネットに代表される情報通信革命のインパクトがある。画像情報の保存・流通コストが一気に下がり、情報爆発が起きていることはだれの目から見ても明らかだ。とすれば、大教室での授業でも、これまでのように、教師が黒板に文字を連ね、学生が写すというやり方は、現代社会の流れにマッチしていないのではないか――そんな問題意識から実験的な授業を進めている。
2018年3月の雑感
 冬季オリンピック・パラリンピックが終わると、次はいよいよ東京オリンピック・パラリンピックという気分が高まってくる。そこで気になるのが、オリンピック・パラリンピックに照準を合わせたテロだ。テロから市民を守る対策は十分だろうか。
 写真(左)は日本の駅で見かけた防犯ポスター、写真(右)はアメリカの駅で見かけた防犯ポスターだ。さて、どちらが効果的だろうか。
 日本では、意識を高めようとする取り組みが多い。しかし、意識というものは、「高めましょう」と呼び掛けられて高まるものではない。「いじめはやめよう」「痴漢に注意して」と連呼しても、効果を発揮しないのと同様だ。
 「意識」を高めるのは「知識」である。犯罪が起きるメカニズムに関する知識があれば、自分の作為や不作為がどのような結果をもたらすか、どれだけの被害が発生するか、想像できるようになる。そのプロセスの中で「意識」は自動的に高まっていく。知識→想像→意識向上→行動変容という流れだ。
 アメリカのポスターは、「この絵の何が問題なのか」と問いかけることにより、テロから身を守るためには、「人の識別」ではなく「景色(場所)の解読」が重要であることに気づかせるのが狙いだ。要するに、「犯罪機会論」という知識を伝えるのが、このポスターの役割なのである。こうした知識がなければ、意識は高まらず、行動が変わることもない。
2018年年2月の雑感
 「不審者」という言葉が、これほど多く使われているのは日本だけである。西洋では「不審物」という言葉は使っても「不審者」は使わない。犯行動機の有無や犯罪性向が強い性格かどうかは、外見からは判断できないからだ。例えば、写真(左)は、イギリスの駅の防犯ポスターだが、「something(もの、こと)」と書かれているだけで、「人」は登場しない。
 日本では、人に注目する「犯罪原因論」の影響が絶大で、場所に注目する「犯罪機会論」が普及していないため、道徳教育では「人は見かけで判断するな」と言っているのに、防犯教育では「人は見かけで判断しろ」になっている。判別困難な「不審者」を無理やり発見しようとして、知的障害者、ホームレス、外国人を不審者扱いすることもしばしばだ。あるいは、識別は困難だと分かって、「知らない人はみんな不審者」とお茶を濁している。
 写真(中)は、10数年前に小田急線の車内の窓ガラスに貼られたステッカー。写真(右)は同じ窓ガラスに数年前から貼られるようになった新しいステッカー。和文はどちらも同じだ。初版の英文には、「遺棄物(abandoned belongings)」と「不審物(suspicious objects)」しか書かれていなかったが、最新版の英文では、「遺棄物」が「不審者(suspicious persons)」に書き換えられている。しかし、修正すべきは、英語ではなく日本語だったのだ。
 人間不信を助長し、相互扶助を阻害する「不審者」という言葉――もういいかげんにやめませんか。
2018年1月の雑感
 昨年見た映画の中で、最も印象に残った作品を挙げるなら、デンゼル・ワシントン監督・主演の『フェンス』だ。アカデミー賞の作品賞、主演男優賞、助演女優賞、脚色賞にノミネートされ、ビオラ・デイビスが助演女優賞を獲得した。それほど高い評価を得たにもかかわらず、不思議なことに、日本では劇場公開されなかった。
 それはさておき、タイトルの「フェンス」が持つ学術的な意味については、『写真でわかる世界の防犯 ――遺跡・デザイン・まちづくり』(小学館)の中で詳しく触れた。簡単に言えば、「フェンスは守りの基本形であり、フェンシングやディフェンスともリンクするキーワード」ということだ。つまり、ポジティブな概念なのである。ところが、日本人の多くは、「檻のようだ」として、ネガティブな概念を抱いている。
 「フェンス」をめぐる欧米人と日本人の意識の違いは、映画『フェンス』に対する批評においても見て取れる。例えば、日本のある新聞では、「フェンス」の意味を、「人種間の壁であり、夫婦の溝であり、親子の葛藤である」と説明している。しかし、この解釈は的外れだ。欧米メディアの解釈とは異なる。
 映画の中でビオラ・デイビスが歌っているゴスペル「JESUS BE A FENCE AROUND ME」(イエスよ、私を囲むフェンスになって)からも明らかなように、ここでの「フェンス」の意味は「人種差別という悪魔から家族を守るもの」だ。つまり、この映画は、フェンスの中に息子をつなぎとめて守りたい父親と、フェンスの外に出てリスク覚悟でチャレンジしたい息子、そして両者の気持ちが分かる母親が織りなす人間模様を描いた作品なのである。
 たかが「フェンス」、されど「フェンス」。ポジティブにとらえる欧米人と、ネガティブにとらえる日本人との意識の違いは、映画の見方だけでなく、防犯意識や防犯環境設計に大きな相違をもたらす。その結果、日本の街は「守り」の姿勢を取ることができず、無意識のうちに、犯罪に弱い場所を作り出してしまっているのである。

プロフィール

小宮信夫(こみや・のぶお)
立正大学文学部社会学科教授
(社会学博士)
ケンブリッジ大学大学院
犯罪学研究科修了

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