近況雑感(毎月更新)

2017年10月の雑感
 今、ボクシングが面白い。今年4月に行われたジョシュアvsクリチコの一戦は、アリvsフォアマンやホリフィールドvsタイソンを思い出させるようなインパクトのある試合だった。その後も、村田vsエンダム、亀海vsコット、井上vsニエベス、ロマゴンvsシーサケット、ゴロフキンvsアルバレスと注目カードが続いた。番外編のメイウェザーvsマクレガーも、それはそれで面白かった。
 
 もう40年も前の話だが、ボクは、あのシュガー・レイ・ロビンソンに会ったことがある。モハメド・アリが最も尊敬し、シュガー・レイ・レナードが名前を拝借し、AP通信社が20世紀のトップボクサーに選出した伝説の名ボクサーだ。パウンド・フォー・パウンド(全階級を通じて最高のボクサー)という言葉も、シュガー・レイ・ロビンソンを称えるために作られたという。
 ボクがシュガー・レイ・ロビンソンに会ったのは、大学を休学して渡米し、ロサンゼルスのコンビニで働いていたときのこと。店によく買い物に来る老人が、有名な元世界チャンピオンだと、従業員仲間が教えてくれた。そのときにもらったサインは、今でもボクの大切な宝物になっている(写真)。
2017年9月の雑感
 先月末からアイスランドに行ってきた。「氷河と火山の国」と言われるだけあって、荒削りの大自然には驚かされたが、驚かされたのはそれだけではなかった。
 幹線道路を走っていたら、道沿いに奇妙なオブジェが見えた(写真)。それは、実際の事故で大破した2台の車だった。日本では、ともすれば事故や事件のリアリティを隠しがちになるが、案内してくれたアイスランド人は、この啓発手法を誇らしげに語っていた。
 やはり、危険なことを危険だと意識できないことが一番危険なことである。そのためには、リアリティを直視することから始めなければならない。違うだろうか――。
2017年8月の雑感
 先日、茅ヶ崎市で「振り込め詐欺防止シミュレーション」の講演を行った。このプログラムは、詐欺の手口を暗記させる従来の方法とはまるっきり内容が違う。
 これまでの啓発方法は、人間の心理を無視した無効なものばかりだ。「その電話怪しいと思ったら110番」と言ったって、怪しいと思わないからだまされるのでしょ。「電話でお金の話はすべて詐欺」と言ったって、電話でお金の話をするのは普通でしょ。「オレオレの電話はすぐに切れ」と言ったって、そんなことをしたら電話がかかってこなくなるでしょ。
 大事なのは、ウソとマコトを見分けること。そのために必要なのが主導権だ。相手が始めた「やり取り」を自分のペースに引き戻すことさえできれば、偽物か本物かが分かってくる。それなしには、氾濫する「特別」や「限定」といった宣伝文句の真偽を見抜くことはできず、「快適な生活」と「安全な生活」を両立させることもできない。
 そうしたノウハウを、体験を通して身につけるのが、このプログラムの目的である。
2017年7月の雑感
 先日、立正大学の付属高校の生徒を対象にしたイベントが開かれた。ボクも、石橋湛山記念講堂で、犯罪学の模擬授業を行った。
 「犯罪は、犯行の動機があるだけでは起こりません。動機を抱えた人が、犯罪の機会、チャンスに出合ったときに初めて起こります。つまり、動機はなくせなくても、犯罪の機会を与えなければ、犯罪は防げるのです。犯罪学では、こうしたアプローチを『犯罪機会論』と呼んでいます。犯罪機会論のルーツは、街全体が壁に囲まれた『城壁都市』にあります」。
 ――とここまでは、会場はシーンとしていたが、「城壁都市は海外では当たり前ですが、日本では生まれませんでした。でも、みんなは城壁都市を見たことがありますよ」と言って、『進撃の巨人』をスクリーンに映したら、会場から「おお~」と、どよめきが起きた。生徒たちが身を乗り出してきたのが分かった。ほんと、いつも「つかみ」には気を使う。
2017年6月の雑感
 先日、大阪で開かれた防犯防災総合展で「防犯の世界標準『犯罪機会論』とは何か」というテーマで講演した。会場では、大阪府防犯設備士協会の出店ブースで『写真でわかる世界の防犯 ――遺跡・デザイン・まちづくり』(小学館)が展示即売されていた。ありがたい話だ。
 防犯防災総合展ではテロ対策も重要なテーマの一つだったが、日本のマスコミは、相変わらず、テロ問題を国際政治の視点からしか見ていない。はっきり言おう。テロの背景や原因をいくら語られても、一般市民にとっては何の利益にもならない。一般市民が知りたいのは、日常生活において、どうすればテロの被害に遭う確率を下げることができるかだ。そのためには、テロ報道においても、「犯罪原因論」から「犯罪機会論」への発想の転換が必要である。
 なぜかって? テロは犯罪だから。もっと言えば、戦争も強盗殺人という犯罪だ。ただ、表面的には合法的に大規模に行われるだけで、その正体は暴力を用いた資源や食料の奪い合いにすぎない。マスコミは、「観客」としての視点からでなく、「当事者」としての視点から、市民のニーズを吸い上げる努力をしてほしい。
2017年5月の雑感
 石の上にも三年。いやいや七年もかかった。渾身の一手が実を結ぶまで――。
 このたび、ようやく念願の「防犯写真集」を出版することができた。半生をささげた研究の集大成だ。この間は、まさに紆余曲折。出版企画は、何度も挫折しかけた。そのたびにへこんだ。しかし、あきらめることだけはしなかった。テレビドラマの「重版出来!」や「校閲ガール」を見ては、「あるある」とうなずきながら、時をやり過ごした。
 牛の歩みだったが、こうして夢が実現して感無量だ。燃え尽きてしまった今、果たして夢の続きはあるのか――。
『写真でわかる世界の防犯 ――遺跡・デザイン・まちづくり』(小学館)
2017年4月の雑感
 テレビ局の依頼で、千葉県我孫子市の排水路脇で小学3年の女児の遺体が見つかった事件の現場を歩いてきた。見て回ったのは、女児が行方不明になったとみられる自宅周辺、遺体が発見された排水路、ランドセルが捨てられていた河川敷の3つの地点。写真左は、遺体が発見された現場だが、この場所に立ったとき、ある事件を思い出した。それは、2006年に滋賀県長浜市で起きた幼稚園児殺害事件だ。その現場が写真右。二つの現場はよく似ている。どちらも、目の前を国道が走り(=入りやすい場所)、周りは田畑が広がるだけの場所(=見えにくい場所)。やはり、犯罪者が好きなのは「入りやすく見えにくい場所」ということだ。
 それにしても、この事件に関しても、相変わらず「不審者、死角、人通り」というNGワードが飛び交っているのには閉口する。「危ない人」かどうかは見た目では判断できない。見ただけで識別できるのは「危ない景色」だけ。死角がなくても、家の窓からの視線を犯人に感じさせられなければ、犯人は犯行をあきらめない(例えば、写真の現場)。そして、人通りが多い道は、犯人にとっては、獲物がたくさんいて、物色しやすい場所。このことに気づかない限り、同じような悲劇は、これからも防ぐことはできないだろう。
2017年3月の雑感
 1年前の3月、約2年間にわたり監禁生活を強いられた埼玉県朝霞市の女子中学生が無事帰還した。誘拐犯が買い物に出かけたすきに逃げだし、駅改札口近くの公衆電話から自宅に電話をかけ、連絡を受けた警察官に保護されたという。
 だからというわけではないが、最近、女子誘拐監禁をテーマにした映画とテレビドラマを立て続けに見た。映画は「ルーム」(写真左)。米国アカデミー賞の作品賞、監督賞、主演女優賞、脚色賞の4部門でノミネートされ、主演女優賞を受賞した秀作だ。テレビドラマは「ザ・ミッシング~囚われた少女~」(写真右)。こちらも優れた作品で、このウェブサイト(2015年5月の近況雑感)で取り上げた「ザ・ミッシング」の第2弾である。
 これからご覧になる方のためにストーリーには触れないが、犯罪学者の視点から言えることは、両作品ともリアリティ感が圧倒的に高いことだ。この点が、犯罪を扱った日本の映画やテレビドラマとの決定的な違いである。誘拐監禁の問題を真面目に勉強したい人にお勧めの2作品である。
2017年2月の雑感
 米国のトランプ大統領が発した大統領令により、国内外に大きな混乱が生じている。反発が起きているのは、メキシコとの国境沿いに壁を建設し、すべての国からの難民受け入れを凍結し、イスラム圏7カ国からの一般市民の入国を禁止するといった大統領令だ。
 これらは「国家の安全」を旗印にしたものなので一緒くたにされがちだが、ハード面の対策とソフト面の対策は分けて考えた方がいい。
 例えば、「学校の安全」を考えるときは、門を閉めるというハード面と地域住民と連携するというソフト面を区別することが必要だ。大阪教育大学付属池田小事件が起こるまでは、学校現場ではそうした意識が薄く、地域住民と連携する取り組みには消極的なのに、門を開けっ放しにすることで「開かれた学校」と主張していた。この奇妙な主張は、障害者や高齢者の福祉施設には未だに見られる。
 「家庭の安全」も同様だ。戸締りをしっかりしながら、近所付き合いを積極的にすることが大切で、その逆に、戸締りをせず、近所付き合いをおろそかにすると、家庭を危険にさらすことになる。

 難民の受け入れ凍結やイスラム7カ国からの入国禁止の措置については、執行の差し止めは織り込み済みで、支持者へのメッセージ効果を狙ったものかもしれない。
 もっとも、この問題を「画一性と多様性をめぐる争い」という視点から考えるのも無駄ではあるまい。
 いち早く「多様性」の安定化機能に気づいたのはアレクサンドロス大王であり、ローマ帝国やオスマン帝国が長きにわたって繁栄したのも「多様性」を保証したからだ。それに引き換え、「画一性」を追求したナチスドイツやソ連の末路は悲惨だった。米国自身はと言えば、「多様性」のトップランナーだったのではないのか(「グッド・ライ」という優れた難民映画もある)。
 歴史の単純な類推は禁物だが、歴史の教訓から学ぶことは多いはずである。
2017年1月の雑感
 年が明けた。
 昨年は絶えざる苦難の年だった。苦難を乗り越えるため、ラインホルド・ニーバーの至言「ニーバーの祈り」を噛みしめた。
 今年は穏やかに過ごしたいが、新たな世界にも挑戦していく。
2016年12月の雑感
 先月、バルセロナ日本人学校での「地域安全マップ教室」の機会を利用して、カンポ・デ・クリプターナとコンスエグラを訪れた。そこは、聖書に次ぐ世界的なベストセラー『ドン・キホーテ』の舞台になったラ・マンチャだ。
 愛馬ロシナンテにまたがったドン・キホーテが、風車を巨人と信じ込んで、槍を構えて突進した、その風車のモデルが今も並び立つ。
 風車の丘にたたずみ、スマートフォンから流れる「見果てぬ夢」を聴いているうちに、「遍歴の騎士」になりきっていたドン・キホーテに、「遍歴の学者」であるボクは、いつの間にか自分を重ね合わせていた――。
 「犯罪機会論が世界標準だ」「日本の公園とトイレは世界一危険」などと唱えるボクは、世間では、誇大妄想のドン・キホーテと同じように見られているかもしれない。実際、テレビで「異色の学者」と紹介されたこともある。
   「まっ、それでもいいけど」。ドン・キホーテのように、理想に燃えて突き進む「遍歴のチャレンジャー」であり続けたい。
2016年11月の雑感
 今月4日に、スペインのバルセロナ日本人学校で、全校児童生徒が参加した「地域安全マップ教室」が開催された。これまでも、韓国のソウル日本人学校、インドネシアのジャカルタ日本人学校、ベトナムのホーチミン日本人学校、台湾の台北日本人学校へは遠征したが、ヨーロッパまでは行けなかった。今回はそれが実現し、ボクのほか、立正大学のリサーチアシスタント2名、大学院生1名、大学4年生2名、大学3年生11名の総勢17人が参加した。
 子どもたちが作製した地域安全マップは、芸術の街バルセロナにふさわしく、生き生きとした作品に仕上がった。子どもたちは、自分の景色解読力を高めれば、日本に帰ってきても、別の国に行っても、犯罪を予測して、危険を回避できるはずだ。
 ちなみに、法務省法務総合研究所の報告書で紹介されている「国際犯罪被害実態調査」によると、犯罪被害率の低さにおいて、スペインは日本をしのぎ、世界第1位である。それもそのはず、スペインの街並みには、そこかしこに犯罪機会論の工夫が埋め込まれているのだが、その話はまた別の機会に。

 *地域安全マップ関連のシンポジウムが開催されます。詳細はこちら
2016年10月の雑感
 先月、イランに行ってきた。不思議な魅力にあふれた国だった。
 シラーズからイスファハンに行くために、空港でチェックインしたときのこと。直行便がなかったので、テヘラン経由の乗り継ぎ便のチケットを購入していた。両便ともにイラン航空だ。テヘランで空港の外に出るつもりはなかったので、荷物はスルーでイスファハンまで送ってくれるように頼んだ。同じ航空会社でしかも国内便なので、すんなり預けられると思っていた。ところが、カウンターの係員は、それはできないと言ってきた。後ろに並んでいた乗客も、「どうした」と話に割って入ってきたが、「テヘランで荷物を受け取ればいいじゃないか」と取り付く島もない。「まっ、その程度の航空会社なんだな」とあきらめて搭乗した。タラップを上って機内に入るとき、乗客一人ひとりにペットボトルの水が渡された。「あゝ、これで機内サービスは終わりだな」。そう思っていたら、離陸後、何と温かい食事を客室乗務員が配り始めた。全席エコノミークラスなのに、乗客全員にチキンカレーライス、パン、ヨーグルト、オレンジジュース、菓子が配られた。空にいる時間はわずか1時間。それでも、国際線の食事のようだった。遅れているのか、進んでいるのか分からない、不思議な航空会社である。
 イランでは、日本人は人気者のようだ。路上で何度も声をかけられては、一緒に写真をとってほしいと言われた。女子高生のグループからも、「写真、写真」と、芸能人ばりに囲まれた。母娘と祖母の3人に話しかけられたときは、みんなで一緒に写真に入るのかと思いきや、なぜか母親とのツーショットだけを撮っていった。スィーオセ橋(写真)を眺めていたときにも、若い男2人組に声をかけられた。「好きなサッカークラブはどこか」といったとりとめもない会話をしていた最中、突然「イラン人をテロリストだと思うか」と聞いてきた。心なしか悲しげな表情に見え、「そう思っていたら、ボクはここにはいないよ」と返すのが精一杯だった。確かに報道では、ネガティブな情報ばかりが目立つ。無知と偏見の関係を考えさせられる、不思議な出会いだった。
2016年9月の雑感
 先々月に起きた相模原障害者施設殺傷事件をめぐっては、相変わらず「人に注目する犯罪原因論」からの意見が目立つ。しかし海外では、「犯罪の原因を特定することは困難であり、仮に特定できたとしてもその原因を取り除くことは一層困難である」という認識が強い。そのため、より現実的な「場所に注目する犯罪機会論」が防犯対策を担っている(写真:共同通信の配信記事)。
 もちろん、犯罪原因論と犯罪機会論は、犯罪対策の車の両輪ではあるが、日本では犯罪原因論が突出しすぎている。それを疑問に思う人も少なからずいるに違いない。今回も、新聞記事を読んだ知的障害者の母親から手紙をいただいた。
 抽象的な意見や実現不可能な意見で、お茶を濁すのはもうやめてほしい。
2016年8月の雑感
 南米初のオリンピックがブラジルのリオデジャネイロで始まった。「オリンピック大好き人間」のボクにとっては、この期間、オリンピック観戦が最優先事項となる。
 今回は、ハイレベルな競技以外にも、史上初の「難民選手団」に大注目だ。連帯や平和を掲げるオリンピック憲章に合致しているだけでなく、国別対抗というナショナリズムを超えたグローバリズムに依拠している点が魅力的に映る。
 その象徴的な存在が、競泳女子のユスラ・マルディニ選手(写真:UNHCRのウェブサイトから)。戦乱のシリアを逃れ、ヨーロッパに渡ろうとしたが、ゴムボートのエンジンが壊れ、それから3時間、暗く冷たい地中海を、難民ですし詰めのボートを押しながら泳ぎ切ったという。
 しかし、残念なことに、マルディニ選手のレースを見ることはできなかった。その時間、なぜかテレビは、レースではなく、日本選手団が陣取るスタンドを映していた。「難民に冷たい国」といわれる日本ならではの放送なのだろうか。
 そういえば、イギリスのEU離脱決定のときも、日本のニュースでは、ユーロ安・円高の話ばかりで、難民・移民排除の話はほとんど出なかった。
 東京オリンピック招致のときに話題になった、日本が誇る「おもてなし」も、利益をもたらす「お客様」に対するものであって、見ず知らずの「よそ者」に対しては、日本人は冷淡どころか敵意さえ抱きやすい、と指摘する向きも少なくない。
 どうやら日本では、「ヒト」よりも「カネ」が、「生命」よりも「経済」が優先されているようだ。違うだろうか――。
2016年7月の雑感
 今月、バングラデシュの首都ダッカでテロが発生し、日本人を含む多くの人質が殺害された。そういえば、この「近況雑感」でも、バングラデシュのテロ事情を紹介したばかりだった(3月)。
 3か月半前には、ベルギーの首都ブリュッセルでも自爆テロが起こった。写真は、その現場となった空港出発ロビーの現状。先月末の訪欧の際に撮影した。
 それにしても不思議なのは、日本の報道では、テロがいつも政治問題として扱われることだ。中東問題の専門家が、テロの背景を解説するのが定番になっている。もちろん、国際政治の視点は重要だが、テロ行為自体は犯罪以外の何物でもない。
 どうして、テロを犯罪問題として取り扱わないのだろうか。やはり、日本では「犯罪原因論」の影響が強いので、テロについても動機や原因ばかりが議論されることになるのか。「犯罪機会論」の視点さえあれば、日常レベルで、どうすればテロに巻き込まれないで済むのかを議論できるはずだが・・・。それが欠落しているのは残念でならない。
2016年6月の雑感
 最近の教育界では、「アクティブ・ラーニング」という言葉が流行語になっている。小学校から大学まで、教師たちは「これからはアクティブ・ラーニングだ」と口角泡を飛ばして議論している。学習指導要領の全面改訂でも、「アクティブ・ラーニング」が目玉になるそうだ。
 文部科学省の定義によると、「アクティブ・ラーニング」とは、「教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称」である。
 とすれば、10年以上続けている、小学校における大学生による地域安全マップづくりの指導は、小学生にとっても大学生にとっても、まさしくこの「アクティブ・ラーニング」だ。「今ごろ遅いよ」と言いたいところだが、言わないから「アクティブ・ラーニング賞」とかいただけないものか。
 冗談はさておき、アメリカ生まれの「学びのピラミッド」(下図参考:名古屋商科大学のウェブサイトから)に従えば、地域安全マップづくりの学習定着率は75%から90%である。しかし、「地域安全マップづくり=アクティブ・ラーニング」という意識がないと、間違った作り方をしてしまう。実は、実際に作られている地域安全マップの9割が、こうした偽りの地域安全マップなのだ。
 「アクティブ・ラーニング」の広がりとともに、正しい地域安全マップづくりも広がっていけばいいのだが・・・。
2016年5月の雑感
 先月、大分県の別府と中津で連続講演を行った。その講演の合間を縫って、主催者である大分合同新聞社のご厚意で観光スポットを案内してもらった。その中で特に印象に残ったのが、中津にある福沢諭吉の旧居だ(写真左)。
 隣接する博物館には「学問のすすめ」の初版も展示されていた。かやぶき屋根の母屋の前にたたずみながら、福沢諭吉研究でも有名な慶應義塾大学名誉教授の故・加藤寛先生のことを思い出していた。 
 ボクは立正大学に来る前、民間のシンクタンクにいたが、その研究所の所長が加藤先生(当時は千葉商科大学学長も兼務)だった。忙しい合間を縫って、ボクたちにも、福沢諭吉の思想などいろいろな話を聞かせてくれた。そして何と言っても、研究者のあるべき姿を、身をもって示してくださった。
 博士号を取得したときには、「ミネルヴァの梟(フクロウ)」の置物をいただいた(写真右)。それには、「ミネルヴァの梟のように、真っ暗な日本に光を灯してほしい」という趣旨のメッセージが添えられていた。
 加藤先生のような研究者になりたいと思い続けてきたが、果たして、先生の期待通り、暗闇の世界に「新たな知識」という光を放つことができているだろうか。
2016年4月の雑感
 埼玉県朝霞市で行方不明になっていた女子中学生が、先月末、2年ぶりに保護された。容疑者は朝霞市に行った理由を「インターネットの地図アプリで誘拐する場所を探した。朝霞市が田舎すぎず、都会すぎず良い場所だと思った。朝霞に土地勘はない」と説明しているという。
 犯罪学(犯罪機会論)で最も有名な学説の一つに、ブランティンガム夫妻が提唱した「犯罪パターン理論」がある。そこでは、①自宅、職場(または学校)、商店街・歓楽街という三つの日常活動の起終点(ノード)、②これら三つの活動拠点を結ぶ三つの経路(パス)、③活動拠点や経路が互いに隣接する境界(エッジ)が、犯罪者にとっての「狩り場」になるとされている(下図参考:リーズ大学のウェブサイトから)。
 こうしてマクロ的に選ばれたサーチエリア(標的を探す地域)の中で、ミクロ的にホットスポット(標的に接触する地点)が選ばれるわけだが、そこは、地域安全マップづくりのキーワードである「入りやすく見えにくい場所」である。
 この知見こそが犯罪学の研究成果であるが、上記の事件はこの枠組みに修正を迫ってくる。なぜなら、グーグル・アースやストリートビューを駆使すれば、日常活動の起終点は三つの場所に限定されなくなる。つまり、時空間を超えて土地勘を身につけることが容易になるのだ。
 もっとも、容疑者は「複数の中学校を下見し、別の女の子も尾行した」と供述しているので、ミクロ的な犯罪行動はこれまでと同じである。つまり、心理的に「入りやすく見えにくい場所」(例えば、人通りが多い道)で【物色】し、物理的に「入りやすく見えにくい場所」で【接触】しているのだ。やはり、ここに突破口を見出すべきであり、「景色解読力」が求められるゆえんである。

2016年3月の雑感
 先月、バングラデシュに行ってきた。インド以上にカオスと言われるだけあって、どこもかしこも人、人、人。交通渋滞も半端ではない。そのため、速度が落ちた車を狙ったひったくりも多いとか。そういう事情だと、東南アジアではおなじみの三輪タクシーも、ここでは写真左のようになる。おそらく、世界で最も“入りにくい”三輪タクシーだろう。
 「入りにくい」と言えば、ボクの泊まったホテルも入りにくかった。何せ、ライフル銃を持った警察官が仁王立ちしているのだから(写真右)。実は、2年に1度のクリケットのアジアカップがちょうど開かれていて、その選手が多数宿泊しているため警備を厳しくしたそうだ。
 外国人が多く泊まるホテルは、テロの格好のソフトターゲット(攻撃しやすい標的)になる。東京オリンピックが開催される2020年に向けて訪日外国人旅行者数2000万人を目指している日本。しかし、犯罪機会論のキーワード「入りやすい」「見えにくい」すら、ほとんどの日本人は知らない。世界標準の防犯知識の普及が急がれる。

2016年2月の雑感
 今月の初め、岡山県備前市の小学校で地域安全マップ教室が開かれた。授業が終わった後、指導してくれたお礼に、子どもたちから歌がプレゼントされた。サプライズだった。心に染み入る天使の歌声とはまさにこのこと。静まり返った教室に木漏れ日が差し込んだかのような感覚に襲われ、必死に涙をこらえた。そういえば、『コーラス』という映画も、涙なしには見られない映画だった。音楽には不思議な力がある――つくづくそう思う。

2016年1月の雑感
 先月、二つの街で、二つのユニークな取り組みに参加した。

 一つは、青森県三戸町(写真左)。ユニークだったのは、小学生、中学生、高校生が地域安全マップ教室に参加したこと。小中高合同の地域安全マップづくりは史上初だ。グループごとのフィールドワークも、町役場が用意した大型バスに乗って、それぞれの調査地区に移動するというユニークなものだった。

 もう一つは、島根県の浜田市立旭中学校(写真右)。ユニークだったのは、この学校の生徒の間に、講演を聞きに来た地域住民が座ったこと。ユニークな着席スタイルのおかげで、クイズを出すと、中学生と住民が仲良く話し合っていた。

 いずれの地域も、暮らしている人の絆が強い、温かい街だった。もっとも、こうした取り組みがユニークに見えるようでは、任重くして道遠しということなのだが・・・。

2015年12月の雑感
 先週、秩父宮ラグビー場に、女子7人制ラグビーのオリンピック・アジア予選を見に行った。なにしろサクラセブンズ(女子日本代表)の3分の1が立正大学の現役生と卒業生なので、応援にも力が入った。サクラセブンズは見事優勝し、リオデジャネイロ・オリンピックへの出場が決定した(おめでとう!)。
 それにしても、ラグビーは面白い。野球は巨人V9時代から、サッカーは銅メダルを取ったメキシコ・オリンピックから見てきたが、ラグビーはまったくのノーマークだった。野球が知力(戦術、駆け引き)、サッカーが体力(スピード、スキル、スタミナ)のスポーツなら、ラグビーはその中間というところか――。
 興奮冷めやらない翌々日、大学の講義(受講生200人)で「秩父宮に行った人?」と聞いたところ誰も手を挙げず、それならば「テレビで見た人?」と聞いたが、やはり手を挙げたのはゼロ・・・。愕然とした。今、母校を応援せずに、いつするというのか。若者の集団離れ、帰属意識の低下がここまで進んでいるとは思ってもみなかった。日本人がバラバラでフラフラするようになると、日本はどんな国になっていくのだろうか。

2015年11月の雑感
 全国防犯協会連合会から振り込め詐欺防止の小冊子が出版された。その内容はこれまでのものとはまったく違う。これまでは、とにかく「ノー」と言え、というのが基本だった。例えば、写真(左)のポスターのような注意喚起。だがこれ自体、詐欺のようなものだ。なぜなら、「電話番号が変わった」という電話の100%近くが本当の話だからだ。こうした予防法は、結局、「なんでもかんでも電話を切れ」と言っていることにほかならない。しかしそれでは、緊急の連絡を自ら遮断してしまうかもしれない。息子は本当に困って助けを求めてきたのかもしれず、孫は藁にもすがりたい気持ちで電話してきたのかもしれないのだ。また、なんでもかんでも電話を切っていては、絶好の機会を失うことにもなりかねない。その電話は、本当にお買得商品の案内かもしれないのだ。

 そこで、この小冊子では、「孫子の兵法」に従って、ウソとマコトを見分ける方法が紹介されている。その方法は、日常的に目にする「本日特売日」「ご当地限定商品」「閉店セール」「大ヒット商品」「在庫僅少」「お客様限定」といった誘い文句の真偽を見抜く方法でもある。この原理原則を応用した詐欺防止シミュレーションの訓練講座をボクは全国各地で開いている。

2015年10月の雑感
 神奈川県海老名市では、防犯カメラを設置するときには、それが最も大きな防犯効果を発揮するような場所と方角、つまり、犯罪者の動線を推測し、犯罪企図者が最も嫌がるような位置を慎重に選び出す作業を行っている。その一環で、先日ある公園を訪れた。写真はその公園にあるトイレ。  

 「トイレは犯罪の温床」とよく言われるが、このトイレは「入りにくいトイレ」であり、比較的安全なトイレだ。なぜなら、男子用トイレの入り口と女子用トイレの入り口がかなり離れている。しかも、被害に遭いやすい女性のトイレは、左に入り込んだ奥まったところ(=入りにくい場所)に配置されている。これなら、男性の犯罪企図者がターゲットの女性の後ろからついて行き、一気に個室に押し込むことができない。男子用トイレの入り口を横に見ながら女子用トイレに近づくだけで、前を行く女性も周囲の人も、おかしいと気づくからだ。慎重なレイアウトデザインは犯罪を抑止する。

2015年9月の雑感
 犯罪機会論に基づく対策の一つに「分かりやすい標識」がある。犯罪者は、侵入行為がとがめられたときに言い訳が通用するかどうかを、「入りやすい場所」の判断基準の一つにしている。つまり、言い訳が通用しそうな場所は「入りやすい場所」であり、それが難しそうな場所は「入りにくい場所」というわけだ。とすれば、標識が分かりやすければ「入りにくい場所」、標識が分かりにくければ「入りやすい場所」ということになる。
 この点で興味深い標識を先月の出張中に見つけた。左の写真はポーランドのクラクフ空港、右の写真はエストニアのタリン空港で撮影したものだ。いずれも、空港に見送りに来た車が短時間だけ利用できる車線を示す標識だが、いかにも分かりやすい。ちなみに、このレーンに入った車のドライバーが旅立つ人と別れるとき、キスをしなかったら罰金が科されるそうだ(ウソ)。

2015年8月の雑感
 先日、群馬県主催の地域安全マップづくり指導者養成講習会が開かれた。その機会を利用して、館林市にある江戸時代の町家建築を見に行った。通りに面した格子は、道路を「見えやすい場所」にする。一方、格子は斜めから見ると隙間がなくなるから、歩行者からの視線は室内には届かない。格子戸や格子窓は、住人のプライバシーを守りながら、歩行者の安全も守れる、犯罪機会論的な知恵の結晶である。

2015年7月の雑感
 東海道新幹線で焼身自殺による火災が起きた。これをきっかけに、鉄道での犯罪や事故の防止策が議論されている。しかし、そのほとんどが思いつきの域を出ていない。少なくとも、海外での対策を踏まえた上で議論すべきではないだろうか。例えば、手荷物検査は先進国ではあまり見られないが、中国では上海のリニアモーターカーや北京の地下鉄でもX線荷物検査を行っている。スペインでも列車爆破テロ(2004年)があったためX線荷物検査を実施している。先進国で一般的なのは車内(座席空間)への監視カメラの設置だ(新幹線はデッキにのみ設置)。ほかにも、非常用連絡装置や非常用脱出装置が車内に備えられている。

 写真左はイギリスの列車(左に監視カメラ、右に非常用連絡装置)。写真右はドイツの列車(上に監視カメラ、下に非常用脱出装置)。

2015年6月の雑感
 中国・浙江省の村落に調査に行ってきた。温州市から車で3時間のところに目指す村落はあった。人口300人ほどのこの村落は山間部に位置しているため、かつてはとても平穏な集落だった。しかし近年、目の前を省道が通るようになり(=「入りやすい場所」になり)、それ以降、侵入盗が多発するようになった。そこで、三方を山に囲まれた特殊な地形を利用して、唯一平地に面した一方に城壁を築いた(=「入りにくい場所」にした)。城門も夜間には閉じられる。この建設費の7割は、住民の寄付で賄われ、残りを行政が支援した。どうやらこの地域でも、万里の長城や城壁都市のDNAが受け継がれているようだ。

2015年5月の雑感
 イギリスBBCのテレビドラマ「ザ・ミッシング」を見た。子どもの誘拐事件を取り扱った番組だが、ゴールデングローブ賞にノミネートされたことからもわかるように、とても秀逸な番組だった。普通、誘拐事件といえば、警察の捜査が中心に描かれるが、この番組では、親の心理や行動に圧倒的な比重が置かれていた。
 にもかかわらず、このドラマ、何と8時間の長さだった。しかし、一気に見てしまった。そういえば、アカデミー賞にノミネートされたアメリカ映画「プリズナーズ」も、「誘拐と親」という同じテーマで、2時間半の長さだった。
 やはり、誘拐事件とはそういうものである。このドラマを長いと感じた人は、断片的な事件ニュースのシャワーを浴びすぎて、事件をとらえる感覚が短絡的になっているのかもしれない。そういう人に限って、動機と犯罪を直線的に結びつけたがる。一つの原因が犯罪を引き起こしたと考えてしまうのだ。
 しかし、動機があっても、それだけでは犯罪は起こらない。犯罪の動機を抱えた人が犯罪の機会に出会ったときに、初めて犯罪は起こるのだ。しかも、その機会は一つではない。機会の連鎖の結果が、犯罪なのである。このあたりのことは、アメリカ映画「フォーリング・ダウン」でよく描かれている。逆に言えば、機会の連鎖を断ち切れば、犯罪は起こらないのだ。
 BBCの「ザ・ミッシング」は、犯罪学の立場から見ても、よくできたドラマである。今度は、実際の誘拐事件を取り扱った長編ドキュメンタリーを見てみたいものだ。

      「ザ・ミッシング~消えた少年~ 番組宣伝映像」 (c) New Pictures & Company Pictures with all3media International

2015年4月の雑感
 先週、岡山県主催の地域安全マップづくり講習会に行ってきた。その機会を利用して、昨年倉敷市で女児が連れ去られて監禁された事件の誘拐現場を見に行った。そこはやはり、「入りやすく見えにくい場所」だった。道路にはガードレールがなく、車に乗った誘拐犯が、歩いている子どもを簡単に車に乗せられる「入りやすい場所」であり、周囲に田畑が広がり、家の窓からの視線が注がれない「見えにくい場所」である。
 女児が通う小学校では、こうした景色解読力を高める地域安全マップづくりの授業は行われていたのだろうか――。

2015年3月の雑感
 先週、防犯住宅を調査するため、南太平洋に浮かぶ島国サモアに行ってきた。興味があったのは、ファレと呼ばれる伝統的な家。なんとこの家、壁がないというのだ。早速、観光案内所で相談したが、文化村しか紹介してもらえなかった。確かに、そこにはファレはあったが観光客向けのものにすぎず、生活感はなかった。
 やはり「本物」が見たい――。そこで、街を歩きながら、止まっているタクシーに片っ端から聞いてみた。すると何台目かの運転手が案内できるというではないか。半信半疑のまま連れてこられたのが左の写真。なんとまぁ、そこは運転手の友人の家だった。う~ん、「入りにくく見えやすい」ぞ。家の中にテレビがあることも分かる。高床の下には犬もいた。
 このデザインは現代の家にも生きている。壁を設けても、大きなガラス窓で家全体を囲むようにしている。右の写真は、サモアの国会議事堂。これもまた、ファレをかたどっている。丸屋根の下の周囲は全面ガラス張りなので、議長席や議員席がガラス越しに丸見えだ。

 どうやらサモアでは、プライバシーよりも、コミュニケーションの方が大切にされてきたようだ。ファレから「おもてなし」の心を垣間見た旅だった。

2015年2月の雑感
 歴史は繰り返される――。和歌山県紀の川市で男児が殺害されたが、この事件では、宮崎勤事件(1988年~89年)のときと同じように、容疑者の「心の闇」ばかりがクローズアップされている。しかし、今の科学水準では、「心の闇」を解明することは不可能に近く、犯罪者の心を治す「妙薬」や「解毒剤」はいまだに発見されていない。
 犯罪学では、人に注目する立場を「犯罪原因論」、場所(景色)に注目する立場を「犯罪機会論」と呼んでいる。犯罪原因論とは、犯罪者が犯行に及んだ原因を究明し、それを除去することによって犯罪を防止しようとする考え方である。これに対し、犯罪機会論とは、犯罪の機会を与えないことによって犯罪を未然に防止しようとする考え方である。
 西洋諸国では、犯罪発生後を扱う犯罪原因論と、犯罪発生前を扱う犯罪機会論との役割分担がはっきりしている。しかし、日本ではそのような役割分担が確立していない。そのため、犯罪原因論が犯罪発生前に持ち込まれている。しかし事前の世界では、まだ犯罪が起きていない以上、「犯罪者」も存在しない。したがって、「犯罪者」という言葉も使えない。そこで、苦し紛れに「不審者」という言葉を登場させた。こうして、西洋諸国では使われていない「不審者」という言葉が、日本では当たり前に使われる言葉になった。しかし、この言葉は、様々な問題を引き起こしかねない。
 第1に、「不審者」という言葉から、犯罪を予測することは不可能である。だれが犯罪を企てているかは見ただけでは分からないからだ。
 第2に、「不審者」という言葉は、人権の侵害と異質な者の排除につながる可能性が高い。無理やり不審者を発見しようとすると、平均的な日本人と表面的な特徴が異なる人の中に不審者を求めがちになるからだ。
 第3に、「不審者」という言葉は、コミュニティを崩壊させる可能性がある。不審者を探そうとすると、相互不信と無用の対立を招き、その結果、地域で互いに助け合う関係も破壊されるからだ。
 このように、「不審者」という言葉は、有害な副作用を起こしかねない。「不審者」を「景色解読力」に置き換えたら、安全で公正で温かい社会になるのだが……。その道は遠い。

2015年1月の雑感
 先月、台湾の台北日本人学校で「地域安全マップ教室」が開かれた。素晴らしい子どもたちと先生方の協力のおかげで有意義な一日になった。指導助手として参加した大学生も、非日常の経験を通じて大きく成長したに違いない。「旅は人生のシミュレーションである」(by小宮信夫)。

2014年12月の雑感
 深作欣二監督の「仁義なき戦い」の主役を演じ、宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」では釜爺役の声優も務めた大スター菅原文太さんが亡くなった。

 ボクはかつて一度、文太さんがパーソナリティーを務めるラジオ番組に呼ばれたことがあった。いつものように、犯罪機会論や地域安全マップの話をしてスタジオ収録が終わった。ボクが帰ろうとすると、文太さんがエレベーターホールまで見送りにいくというので、二人で雑談しながら廊下を歩いていた。ボクが何気なく、「犯罪原因論も、今では、リスクファクターという視点や、メンタリングといった手法を重視するようになり、昔とはずいぶん違うんですよ」と話したら、文太さんが「それは興味深い。その話もぜひ放送したい」と言い出した。そこで、エレベーターホールからスタジオへ引き返し、犯罪原因論の現在について追加収録した。

 聞き流してもいい状況なのに、よりよい番組づくりのためには労を惜しまない――その姿に実直で誠実な人柄を垣間見る思いがした。菅原文太さんは、本当にカッコよかった。ご冥福を祈る。

2014年11月の雑感
 先日、NHKの特殊詐欺に関する番組にVTR出演した。その中でボクは、ウソの電話と本当の電話の見分け方を説明した。しかし、番組全体としては、「怪しい電話はすぐに切れ」というスタンスだった。これは言い換えれば、「すべての電話はすぐに切れ」ということだ。そのことにだれも気づいていない。

 日本人の発想はいつもそうだ。子どもたちにも、「知らない人から話しかけられたら逃げろ」と教えている。これで、「おもてなしの国、日本」などと自己評価しているのだからあきれる。知らない人と話さなければ、子どものコミュニケーション能力も育たない。地域安全マップづくりでは、「人はウソをつくが、景色はウソをつかない。だから景色を見よう」と教えている。「不審者」に注意させているから子どもはだまされるのだ。そのため、海外では「不審者」という言葉は使っていない。「景色解読力」さえあれば、だまされることはないのである。

 振り込め詐欺も同様だ。「なんでもかんでも電話を切れ」と教えれば、緊急の連絡を自ら遮断してしまうかもしれない。息子は本当に困って助けを求めてきたのかもしれず、孫はわらにもすがりたい気持ちで電話してきたのかもしれないのだ。また、なんでもかんでも電話を切っていては、絶好の機会を失うことにもなりかねない。その電話は、本当にお買得商品の案内かもしれないのだ。インターネットを利用した詐欺についても同じことが言える。着信したメールは、本当にパスワードの漏えいを知らせるものかもしれないのだ。

 電話に出ず、メールも使わなければ、詐欺には引っかからない。子どもも家に閉じこもっていれば、誘拐されない。しかしそれでは、別の大きなものを失ってしまう。最新技術の恩恵に浴し、活動的な日々を送ることが万人の希望だろう。しかしそこには危険も潜んでいる。要するに大事なのは、危険と安全の「違い」を見極めることである。

 ではどうすれば、だまされずに済むのか。どうすれば、ウソの電話と本当の電話を識別できるのか。その答えは、世界最古にして最高の兵法書の執筆者、孫子が教えてくれている――「善く戦う者は、人を致して人に致されず(巧みに戦う者は、敵を思い通りに動かし、敵の思い通りには動かされない)」。

2014年10月の雑感
 今月から、名古屋の中日文化センターで犯罪学の連続講座が始まった。第1回では、先月起きた「神戸女児殺害事件」について詳しく解説した。ボクの現場レポートを放送したNHK『かんさい熱視線』も視聴してもらった(そのフィールドワークに同行したNHK解説委員のレポートはこちら)。
 この番組でボクが強調したのは、「今後必要になるのは、防犯意識ではなく防犯知識」ということだ。

 子どもの安全といえば、相変わらず、防犯ブザーを渡し、「大声で助けを呼ぶ」「走って逃げる」と指導している。しかし、これらはすべて襲われた後のことであり、犯罪はすでに始まっている。つまり、予防(防犯)ではないのだ。危機管理の言葉を使えば「クライシス管理」である。これに対し、予防は「リスク管理」と呼ばれている。犯罪者に近づかれないためにはどうすればいいか――これこそが「リスク管理」であり、予防(防犯)なのである。

 そもそも、子どもの連れ去り事件の過半数は、だまされて自分からついていったケースである(警察庁「略取誘拐事案の概要」)。宮崎勤事件も、神戸のサカキバラ事件も、奈良女児誘拐殺害事件も、だまして連れ去ったケースだ。「クライシス管理」では、こうした事件は防げない。

 さらに、パトロールにも大きな限界がある。警察官によるパトロールを分析したマーカス・フェルソン教授(テキサス州立大学)によると、「それぞれの場所が見られている時間は1日につき15秒」「1日の99.98%は警察官に守られていない」という。

 「リスク管理」、つまり「自ら危険を予測し、回避する」(文部科学省「学校安全の推進に関する計画」)ためには、地域安全マップづくりによって、子どもたち一人ひとりの「景色解読力」を高めるしかない。そのことに早く気づいてほしい。

2014年9月の雑感
 先日、滋賀県草津市の常盤小学校を訪れ、2年生に地域安全マップづくりの授業を行った。そこで史上初の出来事に出くわした。 

 マップ教室では、フィールドワークに出る前に、危険性を測る「物差し」になる、「入りやすい」「見えにくい」という犯罪機会論のキーワードを教えている。その際には、安全な通学路や公園と危険なそれをホワイトボードに描き、それを比較するクイズを出して考えさせている。しかし、心理的な「見えにくさ」(見て見ぬふりをされる状況)を理解させるのはかなり難しいので、そのときだけは、学生が寸劇を演じて、そこでの具体的なやり取りを見てもらうことにしている。寸劇の状況設定は、子どもがだまされて連れ去られそうになっているのに、通行人が知らんぷりして歩き去ってしまうというものだ。その日も、いつものように、被害者役の子どもを選び、前に出てきてもらい、その子に誘拐犯役の学生が近づいて「だまし」が始まった。

 まさにその時だった。座っていた子どもが一斉に立ち上がり突進してきた。クラスメートを助けようとしたのだ。この乱入で寸劇は中断し、教室は騒然とした雰囲気に包まれた。これまで、この寸劇は100回以上演じてきたが、こうした展開は初めてだった。さすがにボクも動揺は隠しきれなかったが、それでも、「映画や演劇を見に行っても、いきなりステージに上がったりはしないでしょ」と子どもたちを戒めた。

 しかし、よくよく考えてみれば、子どもたちこそ、見て見ぬふりをしなかった人なのである。褒められこそすれ、叱られるべきことではない。反省すべきはボクの方だ。


 → テレビのニュースはこちら


 そういえば、三重県松阪市の第三小学校での地域安全マップづくり教室(写真)のときにも、同じようなことがあった。模造紙に道路を書いていた子どもが、黒の色鉛筆で塗り始めたので、「道路は茶色でしょ」と注意した。すると、その子どもは「道路は黒だよ」と反論してきた。頭をガツンと殴られたような衝撃だった。

 日頃、「アスファルト舗装の日本の道路は黒に近く、したがって光の反射率が低いので、日本で青色の街灯を設置しても、石畳のヨーロッパのようには路面を明るくできない」などと講演していながら、それを忘れていたのだ。子どもたちから学ぶことは本当に多い。

2014年8月の雑感
 最近、警察の活動について、マスコミから興味深い取材を受けた。

 一つ目は、大阪府警が犯罪認知件数を過少に計上していたという問題。しかし残念ながら、新聞に載ったコメントはボクが強調した点ではなかった。ボクが言いたかったことは、「実際には、認知件数の5倍の犯罪が起こっているのだから、認知件数を重視するのはナンセンス」ということだ。認知件数イコール犯罪総数と勘違いしていることこそ、問題の本質なのである(この点については、新潮新書『犯罪は予測できる』で詳しく述べている)。さらに、「認知件数を重視することは、予防を軽視することにほかならない」ということも、ボクが言いたかったことである。予防に熱心でなくても認知件数が少なければ評価され、予防に熱心でも認知件数が多ければ非難されるのは理不尽である。評価されるべきは、結果(認知件数)ではなく、過程(予防活動)のはずである。

 アメリカでは、警察が犯人を逮捕しても、被害を防げなかったことには変わりないから、日本のようには評価されない。そのため、警察もスタンスを変え、予防を重視する「予測型警察活動」にシフトしてきている(この点についても、『犯罪は予測できる』に詳しい)。大阪府警のウソを非難しているだけでは、そうした動きは出てこないだろう。

 二つ目は、北海道警の制服警察官がコンビニで買い物をしていることに対しクレームが寄せられたという問題。「公務中に制服で弁当を買っていいのか」といったクレームが多くあるそうだ。しかしアメリカでは、市民の感覚は正反対である。ボクが、シカゴ市警のホットスポット・パトロールに同行したときには、制服警察官とレストランに入り一緒にピザを食べた。印象的だったのは、食事中に店員や他の客が次々にテーブルにやってきて、いろいろな話をしていったことだ。つまりその場は、警察官と地域住民の情報交換の場になっていたのである。もちろん、ボクらの姿を見た犯罪企図者は、こっそり店を抜け出したかもしれない。

 要するに、警察官が制服を着たまま店に入るということは、犯罪企図者に対しては抑止力になり、一般の人にとっては警察官とのコミュニケーションの機会になり、店にとっては金銭的利益になるのである。このように、一石三鳥にもなる取り組みが、なぜ日本では支持されないのか理解に苦しむ。犯罪問題における思い込みの呪縛は、こんなところにも現れているようだ。

2014年7月の雑感
 吉田拓郎が12年ぶりにセルフカバー・アルバム『AGAIN』(アゲイン)を出した。懐かしい歌がぎっしり詰まった一枚だ。昔の歌を聴いていると、当時の心境がよみがえってくる。嫌なこともあったはずなのに、暖かい気持ちになるから不思議だ。
 吉田拓郎のコンサートには何度となく通った。岡林信康と共演したため「帰れコール」の大合唱を浴びせられた1972年の「フォーク・オールスター夢の競演 音がらみ大歌合せ」――このときもボクは会場の日本武道館にいた。日本初のオールナイト野外コンサート「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート イン つま恋」(1975年)、島を借り切ってのオールナイトコンサート「吉田拓郎 アイランド・コンサート in 篠島」(1979年)、二度目のつま恋オールナイトコンサート「ONE LAST NIGHT IN つま恋」(1985年)、そして「吉田拓郎&かぐや姫 Concert in つま恋 2006」(2006年)――すべてボクはそこにいた。
 そういえば、1975年の「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート イン つま恋」のDVDにボクが写っている。しかもアップで写っている。バミューダパンツの長髪青年が見せるノリノリの姿が、オールナイト野外コンサートの雰囲気にマッチしたのだろう。
 実は、高校生向けの講演会では、この映像を上映することにしている。高校生たちは、ボクの若き日の姿を見ると大爆笑する。そんな映像だから、本当は見せたくない。でも、高校生に伝えたいことがあるので、しぶしぶ見せている。それは、「10年後、20年後の自分の姿は、今、想像している姿とはまるっきり違う」ということ――講演しているボクの姿と、DVDの中のボクの姿がまるっきり違うことを見せることで、「人生は分からない」ということを知ってもらうのが狙いだ。
 講演はいつも、「『高校生』と書いて『可能性』と読む」という言葉で締めくくっている。その証拠として、ボクのショッキング映像を見せているのだ。

2014年6月の雑感

 2005年に栃木県今市市(現日光市)の女児が下校途中に連れ去られ刺殺された事件で、容疑者がようやく逮捕された。そのこと自体は喜ばしいことだが、この事件から学ぶべき教訓が、あまり伝わっていないことは残念でならない。
 事件当時、誘拐現場を2度歩いた。被害女児にとって登下校の近道になる場所には、落書きや不法投棄された粗大ゴミなど、心理的に「入りやすく見えにくい場所」だと犯罪者に思わせてしまうシグナルがあった(写真)。
 通学路付近の高速道路をくぐるトンネルの壁面には落書きがあり、通学路沿いの宅地分譲地には、冷蔵庫、自転車、タイヤ、洗濯機、自動車、コンピュータなどが不法投棄されていた。この分譲地は、分譲後に開発が放棄されたため、人家はなく、荒れ放題になっていた。
 こうした場所は、割れ窓理論(犯罪機会論のソフト面)が最も危険視する場所だ。割れ窓理論によると、落書きや不法投棄といった「小さな悪」の放置が人々の罪悪感や地域の秩序感を弱め、その結果、「小さな悪」がはびこるようになり、そのことが、犯罪が成功しそうな雰囲気を醸し出し、凶悪犯罪という「大きな悪」を生み出してしまうという。
 そもそも、落書きが書かれたり、ゴミが捨てられたりするのは、その場所が、物理的に「入りやすく見えにくい場所」だからだ。さらに、捨てられたゴミが、いつまでたっても拾われないと、次から次へとゴミが捨てられるようになり、その場所は、心理的にも「入りやすく見えにくい場所」になってしまう。つまり、心理的に「入りやすく見えにくい場所」は既に、物理的に「入りやすく見えにくい」という条件を満たしていることが多く、危険性がより高い場所なのだ。
 しかし、心理的な「入りやすさ」「見えにくさ」は、物理的な「入りやすさ」「見えにくさ」よりも改善するのは容易だ。例えば、ゴミを拾うだけでも犯罪の機会を減らすことになる。
 こうした点が、この事件から学ぶべき最大の教訓である。しかし、「景色解読力」を高める取り組みは、事件後も一向に進んでいない。逮捕できたからといって喜んでばかりはいられない。大事なのは、検挙よりも予防であり、過去よりも未来なのだから。

2014年5月の雑感
 先月、防犯遺跡の調査にウズベキスタンに行った。写真は、そのときに撮影した古都ヒヴァの街である。この高さから見ると、街全体が城壁に囲まれていることがよく分かる。
 実は、この写真は観覧車から撮影した。驚いたのは、城壁都市を一望できる観覧車がすぐそばにあるのに、観光客が一人もいなかったことだ。ボクは写真を撮るため4周したが(1周2ドル)、その間に乗ってきたのは地元の親子連れ一組だけだった。しかも、この観覧車、午後に3時間も運転を休止していた(シエスタ?)。何とも商売気のない世界遺産都市である。まっ、そこがいいところなのだが。
 観覧車のゴンドラが最も高い位置に来たときが、シャッターチャンスである。しかし「今だ」と思うと、下降を始めている。ふと人生を連想した。上昇しているときには、頂上ではどんな景色が待っているのか楽しみだが、気がつけば下降している。
 いったいボクのゴンドラは、どの辺を回っているのだろうか――。観覧車に揺られながら、人生を考えた午後のひとときだった。

2014年4月の雑感
 大学も新年度が始まった。今年は久しぶりに、ボクの演習クラスを希望した学生全員(3年生19名)がボクの実習クラス(25名)を希望した。かつてはそれが当たり前だったが、最近は、演習クラスと実習クラスで異なる教員を指名する学生が多くなった。理由を聞いてみると、いろいろな専門を学びたいからだという。「広く浅く」が好きな、言い換えれば、雑学志向の「サーフィン系」の今どきの学生らしい。しかしそれでは、高校時代と大差ない。大学最後の2年間ぐらいは、「狭く深く」にチャレンジする、言い換えれば、研究志向の「マイニング系」になってもいいのではないか。その方が、問題発見・問題解決のプロセスを体験できるので、アクティブな職業生活へのステップになると思うのだが・・・。

2014年3月の雑感
 もうだいぶ昔の話だが、「ムトゥ:踊るマハラジャ」というインド映画が日本で大ヒットしたとき、その予告編を見て理解不能に陥り、インド映画に対する評価を決めてしまった。それ以来、インド映画をずっと遠ざけてきた。
 ところが、昨年末、国際線の機内誌で目にとまったインド映画が、ダンス系ではなく犯罪系だったので、だまされたと思って見ることにした。初めて見たインド映画のタイトルは「タラーシュ(Talaash: The Answer Lies Within)」。これが実に面白かった。
 そこで、インド映画のリサーチを始め、人気の高い作品を次々に見てみた。「ロボット」「きっと、うまくいく」「タイガー:伝説のスパイ」、そして第一印象が悪かった「ムトゥ:踊るマハラジャ」にも挑戦した。どれもこれも面白かったが、中でも「きっと、うまくいく(3 Idiots)」は絶品である。あのスティーヴン・スピルバーグが3回も見たというのもうなずける。
 というわけで、今月インドに行ってきた――。映画の話とどう関係しているのか疑問に感じる方もいるかもしれないが、その点については……乞うご期待。写真左は、城壁都市ジョードプルのメヘランガール城塞。写真右は、廃墟と化した城壁都市トゥグラカバード。いずれも、「入りにくく見えやすい」防犯遺跡の代表格だ。
 えっ、今回は機内で何を見たかって。もちろん、インド映画です(D-DayとBhaag Milkha Bhaag)。

2014年2月の雑感
 今月初め、札幌市で小学3年の女児を連れ去り監禁していた犯人が捕まった。宮崎勤事件や奈良女児殺害事件などと同様に、今回もまた、子どもがだまされて自分からついて行くケースだった。にもかかわらず、相変わらず、事実から学ぼうとする姿勢はほとんど見られない。
 逮捕が報じられた日、たまたま小学校のそばを通ったら、校庭で朝礼が行われていた。校長らしき人が全校児童を前にスピーチをしていた。と次の瞬間、自分の耳を疑った。「犯人が捕まりました。よかったですね。皆さんも、大声を出して助けてもらいましょう」――ち、ちがうでしょ。
 札幌の犯人は警察官を装い、「あなた万引きしたでしょう。ちょっと来なさい」と声をかけたという。海外では、ニセ警察官は詐欺の定番だが、日本にも出没するようになったのか……。

 かくいうボクも、ニセ警察官にだまされたことがある。スペインのバルセロナで、サッカースタジアムに行ったときのことだ。スタジアム前の道路を歩いていたら、旅行者風の中年男に呼び止められ、「写真を撮ってくれ」とカメラを差し出された。
 「写真を撮りましょうか」と近づいてきた場合には、渡したカメラをそのまま持ち逃げされる危険があるが、相手のカメラならその心配はない。そこで申し出に応じ、スタジアムをバックに写真を撮ってあげた。
 すると今度は、「向こうの方がいい写真が撮れる」と手招きしながら、歩道から離れていった。10メートルほどついて行くと、道路から死角になる壁の後ろに回り込もうとしたので、「もういいでしょ。急いでいるんだよ」とカメラを返した。とその時、どこからともなく別の男が現れ、身分証(らしきもの)を見せながら、「スペイン警察だ」「スタジアム周辺で麻薬が売買されているとの情報が入った」「パスポートを見せなさい」「財布の中身を見せなさい」とまくし立てた。ビックリしたボクが素直に指示に従うと、男は財布を返しながら「十分気をつけて」と言って立ち去った。気がつくと、写真撮影を頼んできた男も、いつのまにかいなくなっていた。
 これが事件の一部始終である。幸い、実害はなかった。
 過去の海外事例に照らして分析すると、旅行者風の男とニセ警察官はグルになってボクをだまし、ボクの気が動転しているすきに、財布から高額紙幣を抜き取ろうとしたのであろう。ただその時、ボクの財布には小額紙幣が数枚入っているだけだった。盗む価値はないと判断したに違いない。

 「入りやすく見えにくい場所」にはニセ警察官も出没する――バルセロナでも札幌でも、同じ原理が働いているようだ。

2014年1月の雑感
 今月初め、NHKのクローズアップ現代で「『二枚目の名刺』が革新を生む」という興味深い番組を見た。会社を越えたネットワークがイノベーションを生むという内容だった。確かに、会社内では「1+1=2」の場合でも、会社外では「1+1=3」になる可能性がある。情報や発想、あるいは情熱や刺激が、会社の外では幾何級数的に増大するからだ。
 そう考えると、ボクが担当している授業科目「社会調査実習」は、学生たちに「二枚目の名刺」を与えるものかもしれない。

 ボクの実習は、アクション・リサーチという形を採っている。それは、研究者(=観察者)が現場に入り、当事者(=観察対象者)と共に変化を巻き起こし、新しい社会を生み出すための共同的・実践的な調査のことだ。実際、ボクの実習でも、自治体や企業とパートナーシップを組み、問題発見・問題解決型の協働作業を行っている。
 普通、社会調査と言うと、仮説の検証を思い浮かべるだろう。しかし、そもそも、知識や経験が乏しい学生たちに、仮説を設定させるのには無理がある。仮説の構築(理論の創造)には、深遠な知識と豊富な経験が必要だからだ。
 学生の強みは、まだ何ものにも染まっていない感性にある。だとしたら、大学の授業にふさわしい社会調査は、仮説の検証ではなく、仮説の発見であるに違いない。
 
 というわけで、ボクの実習では、大学の中では見ることができない世界へと、学生たちをいざなっている。見ることが気づくことにつながり、気づくことが考えることにつながると信じているからだ。さらに、その過程で「心のイノベーション」が生まれ、考えることが動くことにつながっていけば最高である。

プロフィール

小宮信夫(こみや・のぶお)
立正大学文学部
  社会学科教授(社会学博士)
ケンブリッジ大学大学院
  犯罪学研究科修了

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